長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第11章
長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―
第四部 民衆主体の具体的政策
―「いのち輝く共生の大地」をめざして―
第11章
「菜園家族」の台頭と資本の自然遡行的分散過程
―新たな科学技術体系の生成・進化の可能性―
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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第11章
(PDF:677KB、A4用紙15枚分)
1.資本の自己増殖運動と麻痺する原初的「共感能力」(慈しむ心)
―人間欲望の際限なき拡大と科学技術の暴走―
“生命系の未来社会論”具現化の道である「菜園家族」社会構想による日本社会は、結局、縮小再生産へと向かい、じり貧状態へと陥っていくのではないか、という危惧の念を一般に抱きがちであるが、果たしてそうなのであろうか。
ここではこの危惧と、生命史上稀に見る、人類始原の自然状態以来の人間特有の感性とも言うべき原初的「共感能力」(慈しむ心)の問題を念頭に置きながら、話を進めていきたい。
戦後わが国は、科学技術という知的資産を最大限に活用して産業を発展させ、高い経済成長をもって国際経済への寄与を果たすとする、「科学技術立国」なるものをめざしてきたし、これからもめざそうとしている。しかし、はたして私たちは、これを手放しで喜ぶことができるのであろうか。
科学技術は市場原理と手を結ぶやいなや、人間の無意識下の欲望を際限なく掻き立て、煽り、一挙に暴走をはじめ、ついには計り知れない惨禍をもたらす。2011年3・11フクシマ原発苛酷事故は、その象徴的な事件であった。科学技術はいつの間にか本来の使命から逸脱し、経済成長の梃子の役割を一方的に担わされる運命を辿ることになったのである。
「菜園家族」社会構想では、労働の主体としての人間の社会的生存形態に着目し、何よりもまずそれ自体の変革を通じて、未来のあるべき社会の姿を提起しているのであるが、ここでは、労働と表裏一体の関係にある資本の側面、とりわけ資本の自己増殖運動と、それに触発される人間欲望の問題を科学技術との関連で考えていきたい。
つまり、「労」「農」人格一体融合の抗市場免疫に優れた「菜園家族」という人間の新たな社会的生存形態の創出が、資本の自己増殖運動の歴史的性格と、その制約のもとで歪められてきた科学技術にいかなる変革をもたらすことになるのか。
そして、資本の自己増殖運動に触発され、際限なく肥大化していく人間の欲望のもとで衰退しつつある、人類始原以来のヒト特有の原初的「共感能力」(慈しむ心)をどのように復活・成熟させていくことが可能なのか。
これらとの関わりで、未来社会はどのように展望されるのか、少なくともその糸口だけでも見出したいと思う。
資本の自己増殖運動と科学技術
さて資本とは、自己増殖する価値の運動体である。できるだけ多くの剰余価値を生み出し、その剰余価値の内からできるだけ多くの部分を資本に転化して旧資本に追加し、絶えずより多くの新たな剰余価値を生産しようとする。資本は、市場の熾烈な競争の場において自己の存立を維持するために、絶えず生産規模を拡張し、生産力を発展させていかなければならない。それは、資本の蓄積によってのみ可能である。こうして、蓄積のための蓄積、生産のための生産の拡大が至上命令となる。
結局、資本の所有者は、諸々の資本の運動が織りなす資本主義社会の客観的メカニズムによって、価値増殖の「狂信者」にならざるをえない。こうして、絶えず剰余価値は資本に転化され、社会的再生産の規模が拡張されていく。こうした価値の自己増殖運動の中で、技術は大きな役割を担うことになり、それがかえって資本に対して従属的な性格を強めていくことになる。
技術とは、もともと歴史的に見るならば、人間が自己と自己につながる身近な人間の生存を維持するために生まれたものであり、食べ物を採取したり獲物を捕るための労働や、農耕、牧畜、漁撈に必要な技術がその基本であった。身体を守り暖を取るための衣服や住まいの技術、そして病を治す医療の技術も不可欠だった。
人間の活動が広がるにつれて技術は多様化し、地域地域の風土に根づいた、人間の身の丈にあった技術の実に緩やかな発展が見られた。これこそが本源的な技術である。
しかし、どこかの時点から技術は自然と人間から急速に乖離し、次第に精密化・複雑化・巨大化の道を辿り、自然、そして人間とは対立関係に転化していった。その分岐点は、世界史的に見れば、イギリス産業革命の進展によって、石炭エネルギーによる機械制大工業が確立した19世紀20年代初頭と見るべきであろう。
特に現代においては、経済成長を成し遂げるには、労働力や資本以上に技術が果たす役割が以前のいかなる時代にも増して重要になり、技術的優位性が国内外の市場での競争力強化と超過利潤獲得のもっとも重要な要因となっている。
19世紀以前においては、技術者・技能工の接触や移民によって、経験や勘からなる技術・技能が比較的容易に移転したのに対して、技術が科学との結びつきを強め、抽象的かつ複雑高度になるにつれて、また、資本の集中の進行によって技術独占が強固になるにつれて、技術開発や技術移転は、組織的計画的活動なしには困難になっていく。
こうして、科学技術はますます巨大資本に集中し、独占されていく。そして科学技術者は、このような状況下の資本の自己増殖運動の中で、決定的に大きな役割を演じさせられ、ついには資本の僕(しもべ)の地位にまで貶められていく。
資本の従属的地位に転落した科学技術がもたらしたもの
―人間の「共感能力」(慈しむ心)の衰退
人類始原の石斧など実に素朴な技術からはじまり、精密化・複雑化・巨大化した現代の「高度」な科学技術体系に至るまで、人類の二百数十万年の歴史からすれば、産業革命からわずか二百数十年という瞬くほどのあっという間に、私たちは原発という不気味な妖怪の出没を可能ならしめた。
それを可能にしたのは、まさに資本の自己増殖をエンジンに駆動する飽くなき市場競争であり、なかんずく今日の新自由主義的、市場原理至上主義「拡大経済」である。
こうして現代の科学技術は、ますます資本の自己増殖運動の奉仕者としての役割を担わされていく。
鉄道、自動車、航空等による輸送・運輸は超高速化するとともに、量的拡大を続ける。都市には超高層ビルが林立し、地下鉄は地中深く幾層にも張りめぐらされる。上下水道、電気、ガス、冷暖房施設等のインフラが整備され、通信・情報ネットワークも急成長を遂げ、パソコン、携帯電話、スマートフォン、タブレット端末等々の普及・利用は著しい。
さらには昨今の急速な情報のデジタル化、人工知能(AI)開発への野望、世界覇権の命運をかけた5G(第5世代移動通信システム)をめぐる米中二超大国間の熾烈な技術開発競争。開発の「フロンティア」は、海底に、そして宇宙に際限なく拡大していく。
一方、DNAレベルの解析や量子力学など極小世界の研究と、それらを応用したバイオテクノロジーやナノテクノロジーやマイクロマシンなど新規技術、製品開発もいよいよ進む。科学・技術の対象は、極大と極小の両方向にとめどもなく進化していく。
商品開発の資金力、技術力、それにメディアを利用する力は巨大企業に独占される。最先端の科学的知見と技術の粋を動員して、新奇な商品の開発に邁進したり、些細なモデルチェンジをひたすら繰り返し、使いこなせないほどの多機能化をはかったりするのと同時に、テレビのコマーシャルや新聞・雑誌・インターネットなどの広告によって、人間の好奇心や欲望を商業主義的に絶えず煽り、強引に需要をつくり出していく。
企業の莫大な資金力によって築き上げられた情報・宣伝の巨大な網の目の中で、人々は知らず知らずのうちに、浪費があたかも美徳であるかのように刷り込まれ、大量生産、大量浪費、大量廃棄型のライフスタイルはいよいよ助長されていく。
人間は、自然から隔離された狭隘な人工的でバーチャルな私的享楽の世界にますます幽閉され、野性を失い、他者を思い遣るきわめて人間的な、人類始原以来の稀に見る貴重な原初的「共感能力」(慈しむ心)は次第に麻痺し、病的とも言える異常な発達を遂げていく。それが快適な生活で幸福な暮らしだと思い込まされている。
需給のコマを絶えず回転させなければ成立しない資本主義の宿命
欲望を煽られても買わなければいい、と言われるかもしれない。ある面ではそうかもしれない。しかし、消費者は同時に企業の労働者であり、企業が窮地に陥れば、企業の労働者である消費者も同じ運命にあるという「悪因縁の連鎖」の中にあることも事実である。この新自由主義的、市場原理至上主義「拡大経済」の社会のほとんどすべての人々は、この「悪因縁の連鎖」につながっているのである。
しかも、消費も生産もともに絶え間なく拡大させ、その需給のコマを絶えず円滑に回転させなければ不況に陥るという宿命にある。こうした社会にあっては、浪費は美徳として社会的にも定着していかざるをえない。
現代の私たちは、あまりにも忙しい暮らしを強いられている。目的に至るプロセスの妙を愉しむ余裕など、すべて切り捨てられてしまった。コマネズミのように働かされ、効率と時間短縮ばかりを余儀なくされ、目先の利便性だけを求めざるを得ないところに絶えず追い込まれている。
その結果、こうした忙しい人々のニーズに応えるかのように、多種多様な、しかも莫大な数量の出来合いの選択肢が街中に安値で氾濫し、私たちは仕掛けられた目に見えないこの巨大で不思議な仕組みの中で、ただただ狼狽し目移りしながら、追われるように買い求めていく。
こうして、人々は他者を顧みる余裕すら失い、人間にとって何よりも大切な人類始原以来の原初的「共感能力」(慈しむ心)は阻害され、衰退していく。果てには、我利我利亡者が幅を利かせる社会、そしてそんな世界に成り果てていく。これは、決して大袈裟な話ではないのである。
エネルギーと原材料の大量浪費、その行き着く先の大量廃棄を前提とする市場原理至上主義「拡大経済」は、地球環境や地域の自然に不可逆的な損傷を与えている。そして、人間の物質生活のみならず、精神さえも歪め荒廃させていく。
科学技術は、このように経済社会システムに照応する形で発達を遂げ、今や危機的状況を迎えている。科学技術には、紛れもなく経済社会システムの深刻な矛盾が投影されているのである。
そして、ついに現代科学技術は原子核にまで手をかけ、世界でもっともシンプルでもっとも美しいと言われているアインシュタインの数式E=mc2(エネルギーE、質量m、光速c)どおりに、自然から実に人為的に途方もなく巨大な核エネルギーを引き出し、実用化に成功したかのように見えた。
しかし、天の火を盗んだ人間界にゼウスが持たせ寄越したパンドラの箱はついに開けられ、収拾不能の事態に陥ってしまったのである。際限のない資本の自己増殖運動がもたらした現代科学技術のこの恐るべきあまりにも悲惨な結末に、私たち現代人はどう向き合い、どうすべきかが今、問われている。
経済成長至上主義の破綻 ―GDPの内実を問う
「快適さ」や「利便性」や「スピード」への人間の飽くなき欲求。私たちはこれまで、巨大資本の広告の氾濫の中で欲望や好奇心を煽られ、モノを買わされてきた。こうした「つくり出された需要」を絶えず生み出すために、科学技術は動員され、歪められてきた。それが巨大な商品であればあるほど実に大がかりに、しかも組織的に行われていく。
私たちの身の回りにあるもので、はたして自分の生存にとって本当に必要なものはどれだけあるのであろうか。それどころか、自らの手でモノをつくり出すという、人間にとって本源的な力を奪われ、何よりも人間の身体を、そして精神をどれだけ傷つけ損い、脆弱にしてきたことか。
無理矢理「つくり出された需要」によって、需要と供給の円環を絶えず回すことで、経済は好転すると信じられてきた。そして、この虚しい需要と供給の回転ゴマを絶えず回すために、イノベーションと称して科学技術は実にけなげに奉仕させられてきたのである。資本の自己増殖が自己目的化され、科学技術は、市場競争至上主義のこの本末転倒の経済思想によって、組織的でしかも大がかりな魔術にかけられ、猛進してきたのではなかったのか。
こうして市場に氾濫する商品の中には、程度の差は様々ではあるが、人間の生存にとって本当に必要かどうか疑わしいもの、それどころか危害や害悪すら及ぼすものも少なくない。
リニア新幹線などますます超高速化する運輸手段しかり。首都圏直下型地震の危機迫る中でも、人口分散の発想とは全く逆に、2020年東京オリンピックを梃子に、再開発によってなおも人口集中を促す超巨大都市しかり。莫大な資金を投じ、子どもじみた好奇心を煽り騒ぎ立て、人寄せするパンダ東京スカイツリーは、さしずめその象徴か。
2025年大阪・関西万博と絡めて、成長の起爆剤として構想されている、人間の欲望を際限なく煽るカジノ中核の統合型リゾート(IR)しかり。高速鉄道、巨大空港・港湾施設、未来都市スマート・シティ等々、巨大パッケージ型インフラしかり。新型コロナウイルス・パンデミックに便乗し、さらに拍車をかけられるデジタル社会化しかり。
いったん事故が起これば、空間的にも、時間的にも、社会的にも、計算不可能な無限大の被害を及ぼす危険きわまりない原発しかり。果てには、人間を殺傷する巨大武器体系(陸上の軍事基地施設から海、空、宇宙空間にも及ぶ)など、愚の骨頂である。
例を挙げれば、身の回りの雑多な商品から巨大商品まで枚挙にいとまがない。まさにこれら膨大な商品の堆積物は、資本の自己増殖運動の落とし子そのものなのである。そこに、人類始原以来の、他の動物には見られない、人間特有のきわめて貴重な「共感能力」(慈しむ心)衰退の結末をまざまざと見る思いがする。
こうして見てくると、1年間に生産された財やサービスの付加価値の総額を国内総生産(GDP)とするその内実は、様々な疑問や問題点を孕んでいることになる。
GDPには、人間にとって無駄なもの、不必要なものどころか、人間に危害や害悪すら及ぼすもの、自然環境の破壊につながる経済活動や、人のいのちを殺傷する武器生産など、これら生産活動から生み出される莫大な付加価値も含まれていると見なければならない。しかも近年、その比重がますます高まる傾向にある。
その上、サービス部門の付加価値の総額は、一貫して増大の傾向にあり、とりわけ金融・保険および不動産部門については、アメリカをはじめ西欧、日本など先進資本主義国では、GDPに占めるこの割合をますます増大させている。
一般的に、サービス部門の付加価値総額の増大の根源的な原因には、歴史的には、まぎれもなく直接生産者と生産手段との分離にはじまる、きめ細やかな家族機能の著しい衰退がある。金融・保険および不動産部門の付加価値総額のGDPに占める割合の急激な増大の背景には、金融資本の経済全般への君臨・支配とその跳梁が透けて見える。そこには、実体経済への撹乱とやがて陥る社会の壊滅的危機への影を見て取ることができる。
さらに注視すべきことは、GDPには個人の市場外的な自給のための生活資料の生産や、たとえば、家庭内における家事・育児・介護などの市場外的なサービス労働、非営利的なボランティア活動等々、それに非商品の私的な文化・芸術活動などによって新たに生み出される価値は、反映されていない。
今後、グローバル市場競争がますます激化していけば、こうした商品・貨幣経済外の非市場的で私的な労働や生産活動が生み出す多様で豊かな計り知れない膨大な価値は、いつの間にか狭隘な経済思想のもとに、強引にしかも大がかりにますます排除されていくのではないかと憂慮せざるを得ない。
このように考えてくるならば、経済成長のメルクマールとされてきたこれまでのGDPに基づく成長率には、もはや前向きで積極的な意義を見出すことができないのではないか。それどころか、皮肉にもある意味では、市場原理至上主義「拡大経済」社会という名の、いわば人間のからだの内部に発症した癌細胞の増殖と転移の進み具合を示す指標としての意味しか持ちえないことにもなりかねないのである。
社会的「共感能力」(慈しむ心)の衰退がもたらす究極の結末
現代巨大社会のこうした暗澹たる資本の自己増殖運動のメカニズムを背景に、人間性の本質を成す、他者を思い遣る繊細な原初的「共感能力」(慈しむ心)は衰退、麻痺、消滅へと向かっていく。その結果は、はっきりしている。
世界に誇る日本国憲法前文、および第九条の核心的精神「非武装・非戦、非同盟・中立、世界平和」をかなぐり捨て、いよいよ戦争の道へと突き進むとでも言うのであろうか。その結末は、まさに恐るべき人類そのものの破滅である。
わが国の権力的政治家は、国民に向かっても、国際社会に向かっても、「法の支配」なる言葉を他者に対しては、押し付けがましく好んで強調するが、自国の最高規範を自ら蹂躙しておきながら、その矛盾を何とも感じないのであろうか。そこに権力者の欺瞞の根深さをまざまざと見る思いがする。
戦後長きにわたり憲法違反の既成事実を積み重ね、拡張してきた事態そのものに対して、そして、将来起きるであろうその悲惨な結末に対して、どう責任を取るというのであろうか。「あとは野となれ山となれ」なのか。
権力的政治家たちのごもっともらしい大義名分にそそのかされて、日米軍事同盟のもと、敵味方の隔てなく、民衆同士が殺し合う実に凄惨で、何とも愚かとしか言いようのない“戦争”へと国民もろとも突き進んでいく。これが今日のわが国の偽らざる予測可能な実態なのだ。
私たちは、この現実から決して目を逸らしてはならない。
欧米諸大国と日本の権力的為政者たちは、「民主主義対権威主義の価値観の戦い」などと嘯(うそぶ)き、自己正当化しようとしているが、それこそ身のほどをわきまえない、とんでもない論点のすり替えであり、恐るべき欺瞞であると言うほかない。
人類を破滅へと追い遣りかねない新帝国主義とも言うべき米中超大国、および露、日、西欧諸大国間の今日の醜い多元的覇権抗争は、本質的には、資本の自己増殖運動に触発され、地球規模での社会的「共感能力」(慈しむ心)の衰退がもたらした究極の結末なのである。
2.ヒトの原初的「共感能力」(慈しむ心)の復権と新たな時代の可能性
―「地域」に築く抗市場免疫のライフスタイル―
既に見てきたように、ヒトの「常態化した早産」が原因となって、「未熟な新生児」を受け入れ、長期にわたって庇護する必要性から、他の哺乳動物には見られない、人間に独特の発達事象「家族」の発生を見ることになる。
この稀に見る「家族」を基底に、人間発達の他の3つの事象「言語」、「直立二足歩行」、「道具」が相互に作用し合い、ヒトの脳髄は特異な発達を遂げてきた。
ここでもう1つ見落としてはならない大切な人間の発達事象として、人類始原のヒトに特有の感性、すなわち原初的「共感能力」(慈しむ心)が芽生えてきたことをここで再確認しておきたい。
二百数十万年と言われる人類史の大半を占める、長期にわたる原始的無階級社会、つまり人類始原の自然状態にあっては、ヒトに特有のこの原初的「共感能力」、すなわち他者の痛み、他者の喜怒哀楽を自らのものとして受け止め、共振・共鳴する能力は、緩慢とは言え、徐々に繊細かつ豊かな発達を遂げてきたと言えよう。
しかし、「道具」の発達に伴って生産力が発展するにつれ、個々人の労働によって生み出される剰余価値の収奪が可能になると、人間による人間の「規制・統制・支配」がますます強化されていく。それに従って、長い時間をかけ、着実にゆっくり発達してきたヒトに特有のこの原初的「共感能力」(慈しむ心)は、次第に揺らぎはじめる。
特に18世紀イギリス産業革命に象徴される近代以降、資本の自己増殖運動は凄まじく拡大、それに伴って、人間の欲望は際限なく肥大化する。人々は、狭隘な利己的関心へと走り、分断されていく。
それに連動するかのように、人類始原のヒトのこの原初的「共感能力」(慈しむ心)の発達は急速に阻害されていった。
21世紀の今日、新自由主義的資本の自己増殖運動は、人間欲望の飽くなき肥大化に拍車をかけ、弱肉強食の熾烈なグローバル市場競争至上主義の荒波は、世界のあらゆる地域を席捲する。やがてその経済思想は、幼い心にまで浸透していく。人間にとって貴重な「共感能力」(慈しむ心)は、恐るべき速度で衰退、麻痺、消滅へと向かい、倫理崩壊の重大な危機に晒されている。
人類始原の自然状態以来、長きにわたって培われてきたこの人間の原初的「共感能力」(慈しむ心)の衰退こそが、地球的規模で巧妙かつ残虐に人間が人間を大量に傷つけ、殺めて憚らない、今日の人間精神の荒廃をもたらした元凶なのではないのか。
そうであるならば、この恐るべき事態からの脱却の可能性はあるのか。あるとするならば、どうすればいいのか。それが21世紀の今日の私たちに課せられた最大の難題なのである。
「菜園家族」の創出と資本の自然遡行的分散過程
さて、先にも触れた原発苛酷事故に象徴される、今日の科学技術の「収拾不能の事態」に至るまでの資本の自己増殖運動、つまり資本の蓄積過程には、大きく2つの歴史的段階があった。
1つは、前近代から近代への移行期における「資本の本源的蓄積過程」であり、もう1つは、それによって準備された原初的な資本の基盤の上に展開される、全面的な商品生産のもとでの本格的な「資本の蓄積・集中・集積過程」であり、その延長線上に現れた今日の巨大資本の生成過程である。
この資本の自己増殖運動の全歴史の終末期の象徴とも言うべき、今日のこの科学技術の「収拾不能の事態」は、私たちにこれまでの「資本の蓄積・集中・集積過程」からの訣別と、それに代わるべき「資本の自然遡行的分散過程」の対置をいやが上にも迫ってくる。こうした時代を迎えるに至ったのは、成るべくして成った人類の歴史の必然と言わなければならない。
ところで、これまでにも述べてきたように、21世紀“生命系の未来社会論”具現化の道である「菜園家族」社会構想は、現代賃金労働者(サラリーマン)と生産手段(自足限度の小農地、生産用具、家屋など)との「再結合」によって創出される、「労」「農」人格一体融合の新たな人間の社会的生存形態「菜園家族」を基盤に未来社会を展望している。
めざすべき自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)への中間発展段階としての、週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリング(但し1≦α≦4)に基づくCFP複合社会※1 においては、特定の1人の人間の労働時間から見れば、1週間のうち資本主義セクターC(Capitalism)に投入される労働は、従来の5日から(5-α)日に減少する。
つまりこのことは同時に、社会全体から見れば、純粋な意味での賃金労働者としての社会的労働力投入総量の減少をも意味している。
したがって、このことを資本の側面から見るならば、それは剰余価値の資本への転化のメカニズム、つまり資本の自己増殖運動のメカニズムを漸次衰退へと向かわせ、やがて巨大資本は質的変化を遂げながら、縮小・分割・分散の道を辿っていく運命にあることを意味している。
こうした資本の自己増殖の衰退傾向は、これまでのような巨大資本による科学技術の独占を自ずと困難にし、科学技術が資本の僕(しもべ)の地位から次第に解き放たれ、自由な発展の条件を獲得していく過程でもある。
一方、「菜園家族」型ワークシェアリングによって、人々が「菜園」や「匠・商(しょうしょう)」※2 の自営基盤を自らのものにし、家族や地域に滞留する時間が飛躍的に増えることは、人々の知恵と力量が家族小経営セクターF(Family)に集中して注がれ、その結果、人間の本源的活動の場とも言うべき「地域」にもともとあった、自然的・人的・文化的潜在力が最大限に生かされ、素朴ではあるが人間性豊かな地域づくりが可能になることを意味している。
こうして、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)の農山漁村部に新たに創出される「菜園家族」や「匠商家族」※3 、そして流域地域圏(エリア)の中核都市の「匠商家族」が担い手となって、これまでには考えられなかった自然循環型共生の異次元の「新たな技術体系」創出の時代を切り拓いていくことになる。
各地の風土と長い歴史の中で育まれ、市場原理による浸蝕にもめげずに、それでも何とか生き延びてきた農林漁業の細やかな技術や知恵、民衆のものづくりの技や道具、それに土地土地の天然素材を巧みに生かした伝統工芸や民芸に象徴される、実用的機能美に溢れた精緻で素朴な伝統的技術体系は、自然科学との共振・共鳴に伴って、人類が到達する新たな知見から再評価されることにもなろう。
同時に、「資本の自然遡行的分散過程」の進展に伴い地方に分割・分散されていく「高度な」科学技術との融合もはじまる。
このことは、これまでには見られなかった、自然循環型共生の全く異質の「新たな技術体系」が地域に創出されていく可能性が、大きく開かれていくことを意味しているのである。つまり、「労」「農」人格一体融合の抗市場免疫に優れた人間の社会的生存形態「菜園家族」の台頭は、異次元の新たな科学技術体系の生成・進化に大きな道を拓くのである。
C、F、P各セクター間の相互作用の展開過程と異次元の科学技術体系生成の可能性
CFP複合社会の展開過程におけるC、F、Pそれぞれのセクター間の相互作用に注目するならば、「菜園家族」や「匠商家族」が熾烈な市場競争に抗して自己の暮らしを守るために、生活と生産の基盤を日常普段に自らの手で築いていく結果、家族小経営セクターF(Family)は全体として次第に力をつけ、大勢を占めるに至る。
これとは逆に、同時併行して、資本の自己増殖のメカニズムは衰退へと向かい、資本主義セクターC(Capitalism)は相対的に力を弱め、縮小過程に入っていく。それに伴い、公共的セクターP(Public)は次第に強化されていく。
家族小経営セクターF内の「菜園家族」と「匠商家族」の個々の構成員を見ると、週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリング(但し1≦α≦4)が制度的にも定着していく中で、週に(2+α)日間は自己のセクターF内で家族とともに働き生活し、残りの週(5-α)日間は資本主義セクターC、または公共的セクターPの職場に勤務することになる。
このように、1人の人間が日常的に2つの異なるセクターでの労働に携わることによって、人間の多面的で豊かな発達が日常的に保障されることになる。それはまた同時に、旧来の科学技術が、「家族」と「地域」という極めて身近な場において、大地に根ざした伝統的なものづくりの技術体系と融合し、質的変化を遂げていく条件を恒常的に獲得したことにもなるのだ。
こうした新たな社会的条件のもとで、資本主義的市場原理に完全なまでに統御され、歪められてきた従来の科学技術は新たな展開過程に入り、これまでとは全く異質な、自然循環型共生社会にふさわしい、自然の摂理、つまり、自然界の生成・進化を貫く「適応・調整」の原理(=「自己組織化」)に適った、異次元の「新たな科学技術体系」の創出がはじまるのである。これはまさに、C、F、P3つのセクター間の相互補完的相互作用の展開過程の中ではじめて保障され、可能になると言ってもいいであろう。
こうして「菜園家族」や「匠商家族」は、産業革命以来剥奪されていった本源的なものづくりの力量を自らの手に取り戻し、これまでには見られなかった新たな生活創造への意欲と活力を獲得していく。
そして、市場原理至上主義に抗する自己の生活防衛としての自らの地域協同組織体「なりわいとも」※4 (アソシエーション)を組織しつつ、やがて森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)の中核都市を要(エリア)に、自らの地域ネットワーク、つまり豊かで生き生きとした多重重層的な地域団粒構造をこの流域地域圏(エリア)全域に築きあげていくことになるであろう。
それはつまり、ひとつの流域地域圏(エリア)全域が、「労」・「農」人格一体融合の21世紀の新たな社会的生存形態「菜園家族」を基盤に生成される、人間の自由意志に基づく、いわば有機的で高次のアソシエーションとして熟成されていく過程でもある。
「菜園家族」と「匠商家族」を基盤に成立するCFP複合社会、さらに抗市場免疫の自律的世界、つまり自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)では、四季折々の移ろいに身をゆだね営まれる人間の暮らしと、その母胎とも言うべき自然が根幹を成している。こうした中で人々は、自然と人間との物質代謝の循環に直接関与していることから、この循環のためには、いのちの源である自然そのものの永続性が何よりも大切であることを、日常的に身をもって実感し生きていく。
したがって、この循環を持続させるためには、最低限必要な生活用具や生産用具の損耗部分を補填しさえすれば、基本的には事足りると心底から納得できるのである。自然との物質代謝の循環を破壊してまで拡大生産をしなければならない社会的必然性は、本質的にそこにはない。
浪費が美徳でなければ成り立たない市場原理至上主義「拡大経済」の社会に対して、こうした社会では、モノを大切に長く使うことや節約が個人にとっても、家族にとっても理に適っているのであって、やがてそれは社会の倫理として定着していく。
近世江戸中期に円熟を迎え、高度経済成長以前のついこの間まで息づいていた、かつての伝統的な自然循環型の暮らしの社会においては、節約やモノを大切に使うことが美徳であったことを想い起こせば、それは十分に頷けるはずである。
異次元の新たな科学技術体系の生成・進化と未来社会 ―自然循環型共生社会
早くも1970年代初頭に、現代文明の物質至上主義と科学技術への過大なまでの信仰を痛撃し、巨大化の道に警鐘を鳴らしたE・F・シューマッハー(1911~1977)が世に問うた名著『スモール・イズ・ビューティフル』。今、私たちの目の前に再び甦ってくる。その先見的知性にあらためて注目したい。
3・11フクシマによってパンドラの箱の蓋が開けられ、「収拾不能の事態」に陥った今、現代科学技術を手放しで礼賛していればそれで済む時代は、もうとうに過ぎてしまった。
精密化・複雑化・巨大化への自己運動を続ける現代科学技術。得体の知れない妖怪としか言いようのないこの巨体は、大自然界の摂理に背き、ついには自己制御不能に陥り、同行者であり主(ぬし)でもある資本に、人類を丸ごと生け贄として捧げるとでもいうのであろうか。
ここに至った原因は、一体何だったのか。そして、それを克服していくためにどうすればいいのか。3・11フクシマは、これまでの科学技術のあり方と経済社会のあり方の両者を統一的に、しかも根源的に問い直すよう迫っている。
それに応えるためには、先にも述べたように、18世紀イギリス産業革命以来、延々と続けられてきた厄介極まりないこの資本の自己増殖運動の過程に抗して、いよいよ「資本の自然遡行的分散過程」を対置する以外に道は残されていないのではないか。
たとえそれが30年、50年、80年先の遠い道のりであっても、21世紀の全時代を貫く長期展望のもとに、その基本方向をしっかりと定めておくこと。こうすることによってはじめて、自然界の摂理に適った、21世紀にふさわしい、自然循環型共生の新たな次元での科学技術体系の創出の可能性が見えてくるのではないだろうか。
そして、この可能性を確実に保障する現実社会における局面は、紛れもなく「菜園家族」を基調とするCFP複合社会のC、F、P3つのセクター間の相互補完的相互作用の展開過程の中にある。
特にこの展開過程において必然的に進行する、21世紀の新しい人間の社会的生存形態としての「菜園家族」の創出それ自体が、剰余価値の資本への転化のメカニズムそのものを狂わせ、「資本の蓄積・集中・集積過程」を抑制し、資本主義を根底から揺るがすものになっていること。
つまり、社会の基礎単位である「家族」そのものを「労」「農」人格一体融合の新たな社会的生存形態、すなわち抗市場免疫に優れた「菜園家族」へと一つひとつ時間をかけて改造することが、資本の自己増殖のメカニズムを社会の深層から次第に衰退へと向かわせ、その結果として、「資本の自然遡行的分散過程」を社会の土台からゆっくりと着実に促す、決定的に重要な契機になっていることに刮目しておきたい。
それはとりもなおさず、18世紀イギリス産業革命を起点に成立した資本主義二百数十年におよぶ生成・進化の歴史過程において、おそらくははじめて、現実社会のさまざまな分野における広範な民衆一人ひとりの努力からはじまる、一見何の変哲もないこの「菜園家族」創出という日常普段の地道な人間的営為が、結果的にではあるが、市場原理に抗する免疫を家族自らの内部につくり出し、資本の自己増殖運動そのものを次第に抑制し、資本主義の衰退と次代の自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)への胎動を古い社会(資本主義)の深層から確実に準備し、促進していくことになることに気づかなければならない。※5
そこに、近代を根底から覆し、歴史を大きく塗り替えていくその重大な世界史的意義を見出すことができるのである。
それは同時に、人類始原の自然状態以来、長い時代を経てヒトが培ってきた原初的「共感能力」(慈しむ心)、それを基礎に豊かに発達してきた、人間に特有の他者を思い遣る大切な感性の復活を促すものであり、この自然循環型共生の未来社会の内実をいっそう豊かなものにしていく重要なプロセスでもあるのだ。
人間の「共感能力」(慈しむ心)の復権と21世紀の新たな民衆連帯
こうして、精密化・複雑化・巨大化を遂げ、資本の自己増殖運動に拍車をかけ、ついに母なる自然を破壊し、人類始原以来、培われてきた人間性の本質を成す、他の哺乳動物や霊長類にも見られない、ヒト特有の原初的「共感能力」(慈しむ心)の発達を妨げ、人間の精神をも狂わせ、人間社会を破局へと追い込んできだ現代科学技術に代わって、これまでとは全く別次元の異質な自然循環型共生の新たな科学技術体系が確立されていくであろう。
それは、今から50年ほど前にシューマッハーが唱えた「中間技術」の概念をはるかに超え、3・11後、気候変動、新型コロナウイルス・パンデミック、そしてウクライナ戦争、イスラエルの強権的為政者によるガザ住民のジェノサイドという、これら世界的複合危機の新たな時代状況の中で鍛錬され、いっそう豊かなものになっていくにちがいない。
巨大化し、ついに自然、そして人間社会との対立物に転化した現代科学技術に代わって、自然循環型共生にふさわしい、人間の身の丈にあった、これまでには想像だにできなかった、全く異次元の「潤いのある小さな科学技術」の新たな体系が生成・進化していくにつれて、国内総生産(GDP)を構成する価値の総体からは、人間にとって不必要なもの、無駄なもの、ましてや人間に危害や害悪を及ぼすもの、自然に対して不可逆的な破壊作用を及ぼすもの、そして人間を殺め、人類を破滅のどん底に落とし入れる膨大な兵器体系は、次第に取り除かれていくであろう。
その代わりに、自然循環型共生の異次元の「潤いのある小さな科学技術体系」によってつくり出される、無数の小さな新たな価値に置き換えられていくにちがいない。
このプロセスは緩慢で実に長期にわたることが予想されるが、これまでには想像だにできなかった、自然循環型共生のこの「潤いのある小さな科学技術」がやがて大勢を制するにしたがって、経済成長はもはや意義を失い、この新たな経済社会システムの持続可能性こそが最大の関心事になっていくであろう。
その時、政策立案や経済運営にはなくてはならないものとして、これまで後生大事にされてきた旧来の経済成長率の数値目標自体が、もはや全く意味を失い、それに代わって、この新たな経済社会システムの持続可能性を示し得る客観的指標の考案が、社会的にも要請されてくるにちがいない。
イギリス産業革命以来、長きにわたって一貫して資本の自己増殖運動に寄り添い、精密化・複雑化・巨大化を遂げ、ついにフクシマ原発の苛酷事故を引き起こし、母なる自然を破壊し、人間社会をも狂わせ、さらには核兵器による人類破滅の脅威と不安に人々を追い遣ってきた現代科学技術は、やがて自然の摂理、つまり、自然界の生成・進化のあらゆる現象を貫く「適応・調整」の原理(=「自己組織化」)に即して、人間と自然との再融合の可能性を大きく切り拓く、まったく異次元の新たな科学技術体系に席を譲っていくことになろう。
それはまた同時に、資本の自然遡行的分散過程であり、風土に根ざしたいのち輝く自然循環型共生社会(じねん社会)創出の豊かなプロセスでもある。
その時、科学技術は、資本の自己増殖運動に寄り添い従属する下僕としてではなく、そこから解き放たれ、自由な世界へと羽ばたいていくことになるであろう。
これまで科学技術が歩んできた道は、あまりにも歪められた実に惨めな歴史であった。
3・11東日本大震災・フクシマ原発苛酷事故、それに続く新型コロナウイルス・パンデミック、深刻化する地球温暖化による気候変動、さらにはウクライナ戦争、ガザにおける凄惨な虐殺という、これら世界的複合危機を転機に、科学技術が本来の真価を発揮できる、そして人間の原初的「共感能力」(慈しむ心)が全面的に開花できる本当の歴史は、これからはじまるのである。
とりわけ、人類始原以来、他の動物には見られない特異な発達を遂げてきた人間の原初的「共感能力」(慈しむ心)は、資本の自己増殖運動に潜む、人間欲望の際限なき肥大化に連動するかのように急速に衰退、麻痺し、消滅へと向かっていく。
米中露超大国、その他諸々の大・中・小国入り乱れての権力者たちによる醜い覇権抗争。今日のこの世界的危機を転機に、今こそ反転へと向かうのである。
なかんずく近代資本主義以降、豊かな発達を阻まれ、衰退しきった人間本来の原初的「共感能力」(慈しむ心)を復活、さらに普遍的愛へと昇華させ、人類究極の理念「自由・平等・友愛」のもとに、非戦・平和の精神性豊かな「菜園家族」基調のじねん社会(自然循環型共生社会)の再建が急務となっている。
特に戦後の高度経済成長以降、長きにわたって、国民は形骸化した欺瞞に充ち満ちた「選挙」という狭隘な枠組みに閉じ込められ、「お任せ民主主義」という他人任せの意識にすっかり幽閉されてしまったようだ。
その結果、わが国における主体的、自発的な地域づくりや労働運動は、周知のように壊滅的状態にある。もうそろそろ、他人任せの意識からきっぱり訣別し、変革者としての主体性と民衆連帯の精神を回復すべき時に来ているのではないか。
大地に根ざした「地域」と「労働」を二大基軸に展開する、本来あるべき壮大な民衆運動の新たな時代は、今ようやく、大きく開かれようとしている。
※1 本連載の第6章「『菜園家族』社会構想の基礎 ―革新的『地域生態学』の理念と方法に基づく―」を参照のこと。
※2および3 本連載の第8章「『匠商家族』と地方中核都市の形成 ―都市と農村の共進化―」を参照のこと。
※4 本連載の第6章6節「草の根民主主義熟成の土壌、地域協同組織体『なりわいとも』の形成過程」、および第8章「『匠商家族』と地方中核都市の形成」を参照のこと。
※5 現実社会における具体的、政策的提案として、本連載の第10章「気候変動とパンデミックの時代を生きる ―避けては通れない社会システムの根源的大転換―」で、CSSKメカニズムとして提起している。
◆「いのち輝く共生の大地」第11章の引用・参考文献◆
現代技術史研究会 編『徹底検証 21世紀の全技術』藤原書店、2010年
中山茂『パラダイムでたどる科学の歴史』ベレ出版、2011年
池内了『科学と人間の不協和音』角川書店、2012年
山田慶兒『制作する行為としての技術』朝日新聞社、1991年
大友詔雄「原子力技術の根本問題と自然エネルギーの可能性」(上)(下)『経済』2012年7月号・8月号、新日本出版社
友寄英隆『AIと資本主義 ―マルクス経済学ではこう考える―』本の泉社、2019年
中山徹「産業構造転換と新たな都市戦略 ―『スーパーシティ』構想とその問題点」『経済』2019年12月号、「特集 岐路に立つ日本資本主義(続)」、新日本出版社
内田聖子「自治の極北 ―スーパーシティ構想と国家戦略特区―」『世界』2020年6月号、岩波書店
「特集『デジタル社会』実像と課題」、『経済』2020年12月号、新日本出版社
E・F・シューマッハ 著、小島慶三・酒井懋 訳『スモール・イズ・ビューティフル ―人間中心の経済学―』講談社学術文庫、1986年
サティシュ・クマール 著、尾関修・尾関沢人 訳『君あり、故に我あり ―依存の宣言―』講談社学術文庫、2005年
石井一也『身の丈の経済論 ―ガンディー思想とその系譜』法政大学出版局、2014年
大友詔雄「原子力技術の根本問題と自然エネルギーの可能性」(上)(下)『経済』2012年7月号・8月号、新日本出版社
尾関周二「脱原発・持続可能社会と文明の転換 ―<農>を基礎にしたエコロジー文明へ」『季論21』2012年冬号、本の泉社
尾関周二『21世紀の変革思想について ―環境・農・デジタルの視点から―』本の泉社、2021年
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★ 長編連載「いのち輝く共生の大地 ―私たちがめざす未来社会―」の≪目次一覧≫は、下記リンクのページをご覧ください。
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2024年12月20日
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