長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第6章(その1)
長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―
第三部 生命系の未来社会論 具現化の道
―究極の高次自然社会への過程―
第6章
「菜園家族」社会構想の基礎
―革新的「地域生態学」の理念と方法に基づく―
(その1)
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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第6章(その1)
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1.21世紀の「菜園家族」社会構想 ―「地域生態学」的理念とその方法を基軸に―
本連載の第1章3節「今こそ近代の思考の枠組み(パラダイム)を転換する」、および第2章「人間と『家族』、その奇跡の歴史の根源に迫る」でも触れたように、二百数十万年の長きにわたる人類史の中で、自然に根ざした「家族」は、ヒトが人間になるために根源的で基底的な役割を果たしてきたし、個々の人間の発達一般にとっても、おそらく遠い未来にわたってそうあり続けるであろう。
まさにこのテーゼが、21世紀“生命系の未来社会論”として、私たちがここ20年来提起してきた週休(2+α)日制(但し1≦α≦4)のワークシェアリングによる「菜園家族」社会構想にとって、揺るがすことのできない大前提になっている。
ところで、戦後まもなくはじまった農地改革によって地主・小作制が撤廃され、たけのこの如く次々と自作農(農民的家族小経営)が誕生した。彼らは創造性豊かな農業の再生に奮闘し、実に多種多様な品目の農作物の栽培や家畜飼育に取り組み、篤農家と呼ばれる先進的農家が続々とあらわれてきた。農業生産は飛躍的に増大し、明るい農村の建設へと向かった。敗戦直後の想像に絶する食糧難にあって、貧窮とひもじさに苦しみながらも、不思議なことに人々は明日への希望に燃えていた。
こうした時代の雰囲気の中で、活気を取り戻した自作農のまさに縁の下の力に支えられるようにして、都市労働者も知識層も広範な人々と共に、反戦平和と民主主義、そして文化国日本の建設をめざした。一時期とはいえ、全国津々浦々に未来への希望に燃えた国民的運動が湧き起こり、その高揚期を迎えたのである。
しかしそれも束の間、1950年に勃発した朝鮮戦争による軍事特需を契機に、日本の資本主義は復活のきっかけをつかみ、やがて農業・農村を犠牲にする重化学工業偏重の高度経済成長へと邁進していった。今日の農山漁村の過疎・高齢化と都市の異常なまでの巨大化・過密化という国土の荒廃と、経済・社会の衰退と行き詰まりの根源的な原因は、このときすでに社会の深層に胚胎していたのである。
戦後1950年代半ばからはじまる高度経済成長は、農山漁村から大都市への急速な人口移動をおしすすめながら、大量生産、大量浪費型の経済システムを確立していく。こうした中で、人間の欲望は際限なく拡大し、人々はモノとカネと快適な生活を追い求め、酔い痴れていく。人間にとって根源的で大切なものは見失われ、置き去りにされていった。
つまり私たちは、こうしたことがいずれもたらす深刻な事態に気づくことなく、人間が人間であるために根源的であるはずの「家族」と「地域」を不覚にもないがしろにし、ついには一瞬のうちに衰退の淵へと追い遣ってしまったのである。
このことへの深い内省と、そこから来る近代特有の人間の社会的生存形態「賃金労働者」(高次奴隷身分※ )への深い洞察なしには、これからの21世紀の未来社会構想は、いずれ不徹底なものに終わらざるをえないであろう。そんな時代に今、私たちは立たされている。
※ 本連載のエピローグ「高次自然社会への道」の2節「人類史を貫く『否定の否定』の弁証法」で後述。
生産手段の分離から「再結合」の道へ ―「自然への回帰と止揚(レボリューション)」の歴史思想
19世紀末までに人類が理論的成果として到達した未来社会論、すなわち生産手段の社会的規模での共同所有を基礎に、社会的規模での共同管理・共同運営を優先・先行させる社会実現の道を、ここでは仮に、資本主義超克の「A型発展の道」(従来型の社会主義・共産主義への道)としよう。
この「A型発展の道」は20世紀末、ソ連・東欧の社会主義体制の崩壊によって頓挫し、その理論が重大な欠陥と限界を露呈し破綻したことについては、本連載の第5章1節「19世紀未来社会論の到達点と限界」で触れたところである。
この「A型発展の道」の理論的破綻の原因は何だったのか。20世紀におけるこの理論の現実社会への適用と実践の総括をふまえ、今こそ深く究明しなければならない時に来ている。
今あらためてその原因を明らかにすることによってはじめて、混迷する21世紀世界と何よりもわが国の今日の現実をふまえた、私たち自身のもう一つの新たな未来への道、すなわち草の根の民衆による21世紀未来社会論を見出すことができるのではないか。
その詳細については、拙著『静かなるレボリューション ―自然循環型共生社会への道―』(御茶の水書房、2013年)で、敢えて19世紀に遡り考察してきた。
本質的には19世紀と同様に、今日においても資本の自己増殖運動の進展に伴い、社会の一方の極には、人口の圧倒的多数が生活の基盤を失い、根なし草同然の賃金労働者となって累積し、熾烈なグローバル市場競争に晒されながら過剰生産、労働力過剰の煽りに苦しみ、そこへ不況と恐慌が周期的に襲うことになる。
リストラの恐怖におびえつつ残業漬けの毎日を送りながら、ますます減っていく夫の収入。それを補おうと、女性もパートや派遣の不安定労働へと駆り出されていく。そのために、子どもは託児所に、老人は介護施設にあずけなければならなくなる。するとその分、現金収入がさらに必要になり、劣悪な条件のパートを渡り歩いてでも働きつづけなければならないという悪循環のスパイラルに陥っていく。
自立の基盤を失った家族、つまり国民の圧倒的多数を占める根なし草同然の賃金労働者家族、なかでも雇用労働者の40パーセントを占めるに至った、低賃金で差別的な労働条件を強いられている非正規労働者の不安定性はいっそう露わになる。もともとあった家族固有のきめ細やかな機能は衰退し、家族そのものが崩壊の危機に晒されていく。そして、子どもの育つ場は失われ、児童の成育に重大な支障をきたすようになる。
今日のように生産力が極端に歪められたもとで発展した高度情報化社会、とりわけ1970年代以降の「経済の金融化」の時代にあっては、子どもたちは自然から隔離され、極めて人工的な環境の中でバーチャルな世界にますます追い遣られていく。大人社会の競争原理が子どもたちの世界にも即持ち込まれ、家族の教育への投資、受験競争が異常なまでに過熱し、小さな心を苦しめる。子どもたちの精神は荒(すさ)み、異常な状態に追いつめられ、今までには考えられもしなかった青少年の奇怪な犯罪が急増する。
こうして人類史上どの時代にも見られなかった家族の全般的危機状況が、現代資本主義のこの時代にはじめて、むごい様相を呈して露わになってきた。生産力が高度に発展し、商品化された生産物が溢れんばかりに社会を覆いながら、それに逆比例するかのように、家族の危機と人間精神の荒廃は容赦なく進行していく。
2023年6月13日、岸田文雄首相(当時)は、首相官邸で記者会見し、児童手当の拡充などを盛り込んだ少子化対策の「こども未来戦略方針」なるものを発表した。
2024年度から3年間で実施する「加速化プラン」で、3.5兆円規模を投じ、急激に進む少子化に歯止めをかけるという。財源の詳細は、年末に示すということだった。
5年間で43兆円もの軍拡予算をそそくさと決定しておきながら、この始末である。一体、何に重点を置き、どっちの方向を向いているのであろうか。
深刻、最悪な今日の事態に至ったこの少子化問題は、政権浮揚や政権維持を狙った一時の気休めの「飴玉のバラマキ」などで到底、解決できるものではない。
今触れてきたように、わが国社会の戦後長期にわたる構造的矛盾、根っこからの腐蝕を放置してきた末の破綻であり、その根源に迫る解決を抜きにしては、どうにもならないところにまで来てしまったのである。
まどろっこしいと思われるかもしれないが、21世紀未来社会論の確立が遅れ、目指すべき目標を見失ったまま、世界の人々が放置され、混迷に陥っている今日の事態に鑑み、この際ここで、年来、拙論で提起してきた論点を敢えて繰り返し述べておこう。
今日のこのどうしようもない閉塞状況の中から不可避的に導き出されてくるものは、とどのつまり、生産手段(生きるに必要な最小限度の農地・生産用具・家屋など)と直接生産者である現代賃金労働者(サラリーマン)との「再結合」によって、家族が自給自足度を高め、グローバル市場原理に抗する免疫力を身につけ、自らの自然治癒力を可能な限り高めることである。
それはとりもなおさず、ますます深刻化する容赦のない市場の横暴から自己の生活を正当防衛するための新たな家族形態、すなわち、「労」「農」人格一体融合の抗市場免疫に優れた社会的生存形態「菜園家族」の創出であり、これを優先・先行させる社会進化の道(B型発展の道)である。
つまりそれは、生産手段と人間が有機的に結合していた人類始原の自然状態から、私的所有の発生を契機に、次第に生産手段と直接生産者との分離がはじまる「資本の本源的蓄積過程」を経て、さらに近代に至って両者が完全に分離していくまさにその過程で新たに生まれ、際限なく拡大する資本主義社会の根本矛盾を、生産手段の共有化(A型発展の道)によってではなく、「自然への回帰と止揚(レボリューション)」という民衆の歴史思想に裏打ちされたその現実的方法、つまり、敢えて21世紀において、生産手段と現代賃金労働者(サラリーマン)の両者の「再結合」を果たすことによって克服するという、人類史上未踏の道を切り開こうとするものなのである。
現代賃金労働者(サラリーマン)との「再結合」の対象として想定される生産手段は、もちろん大工業の機械設備や工場などではなく、個々の人間にとって生きるために何よりもまず不可欠な衣食住、中でも食料を必要最小限度生み出すに十分な一定限度の農地と生産用具を指している。
このような生産手段と現代賃金労働者(サラリーマン)との「再結合」によってはじめて、農的家族小経営の基盤は甦り、日常生活の直接の場そのものに豊かな人間発達の諸条件が回復し、人間の全面的発達を促す可能性が大きく開かれていく。
つまりこの過程は、大地に根ざした個性的で創造的な人間一人ひとりの活動と人間的鍛錬を通じて、非民主的で抑圧的な中央集権的独裁体制の生成と増幅を抑制し阻止する豊かな土壌と力量を社会の内部に涵養していく極めて重要なプロセスにもなっている。これは、資本主義超克の「A型発展の道」の挫折という世界史的な苦い経験から学びとり導き出された、貴重な帰結でもあるのだ。
“生命系の未来社会論”具現化の道であるこの「菜園家族」社会構想は、旧来の「A型発展の道」に対置して、資本主義超克の「B型発展の道」、すなわち「菜園家族」を基調とするCFP複合社会(後述)を経て、人間復活の高次自然社会※ へ至る道と位置づけ、21世紀の新たな草の根の未来社会論の試論として展開するものである。
※ 本連載のエピローグ「高次自然社会への道」で後述。
2.「菜園家族」社会構想の理念とその歴史的意義
21世紀“生命系の未来社会論”は、人類史の基底に脈々と受け継がれてきた「自然への回帰と止揚(レボリューション)」という民衆の歴史思想、つまり「自然と人間の再融合」の思想にしっかり裏打ちされたものでなければならない。
ここで提起する「菜園家族」社会構想では、現状からあるべき未来社会に至るプロセスに、中間項とも言うべき実に長期にわたるCFP複合社会(本章の4節で後述)、つまり資本主義セクターC(Capitalism)と家族小経営セクターF(Family)と公共的セクターP(Public)の3つのセクターからなる複合社会を設定している。
この複合社会形成におけるC、F、P各セクター間の相互依存、相互自立の葛藤の全過程を通じて、人々は自らの生産と暮らしの場において自己を鍛錬し、さらには世界の道理を深く認識し、優れた英知を獲得し、豊かな創意性を涵養していく。
こうしてはじめて、目先の利益誘導の欺瞞に満ちた「選挙」のみに矮小化され、形骸化してしまった上っ面だけの民主主義から脱却し、生活に根ざした創造性豊かな本来の民衆運動、すなわち真の草の根民主主義思想の熟成は可能になる。
しかもこのプロセスは、身近な地域から自らの手で次代の生産と暮らしの礎を一つひとつ時間をかけて積み上げていく過程でもある。こうした実に長期にわたるプロセスを抜きにしたどんな「革命」も、たとえそれが議会を通じて一時期政権を掌握できたとしても、結局は、民衆の精神的・物質的力量の脆弱さ故に綻(ほころ)びを見せはじめ、新たな専制的権力の跳梁を許し、ついには挫折せざるを得ない。
まさにこの重い歴史的教訓の核心こそが、「静かなるレボリューション」としての「菜園家族」社会構想に込められた変革の根源的な思想なのである。
18世紀イギリス産業革命以来、大地から引き離され、根なし草同然の「賃金労働者」となった人間の社会的生存形態は、今ではすっかり人々の常識となってしまった。しかし、やがて21世紀世界が行き詰まる中で、これにかわって新しく芽生えてくるものに、その席を譲らざるをえなくなるであろう。
根なし草同然の「賃金労働者」が、生産手段(生きるに必要な最小限度の農地・生産用具・家屋など)との「再結合」を果たすことによって生まれる、「労」「農」人格一体融合の抗市場免疫に優れた「菜園家族」は、まさしくこうした時代転換の激動の中から必然的にあらわれてくる、人間の社会的生存の新たなる普遍的形態なのである。
“生命系の未来社会論”具現化の道としての「菜園家族」社会構想は、本連載の第5章2節「21世紀の未来社会論、そのパラダイムと方法論の革新」で述べた、21世紀における新たな歴史観「生命本位史観」のもと、革新的「地域生態学」の理念と方法論を基軸に、新しいこの人間の社会的生存形態と、それに基礎を置く新たな変革主体「菜園家族」登場の必然性、そして、人類史におけるその位置を明らかにすることから説き起こしている。
その上で「菜園家族」に人間本来の豊かさと無限の可能性を見出し、人類究極の夢である大地への回帰と、人間復活の自由・平等・友愛の高次自然社会への止揚の必然性とその展開過程を探ろうとしている。
CFP複合社会の位置づけとその歴史的意義
ここで刮目すべきことは、長きにわたるこの展開過程の初期段階に「菜園家族」基調のCFP複合社会を明確に位置づけていることである。
このことによってはじめて、「菜園家族」基調の自然循環型共生社会(資本主義セクターCの質的変化にともなって漸次達成される、脱資本主義としてのFP複合社会)、さらにはそのはるか先に現れる高次自然社会を単なる理念として終わらせることなく、そこへ到達する全プロセスをより現実的、具体的かつ多面的にイメージしつつ論じることが可能になってくる。
つまり、この中間項CFP複合社会の設定によって、人類の最終目標とも言うべき高次自然社会に至る実に長期にわたる過程に、具体的、現実的な3つのプロセス、すなわちCFP複合社会の揺籃期(制度的には未確立の段階で、ごく限られた個々の人々によって細々と模索されている今日の時代)と、「民衆による真に民主的な政府」のもとではじめて社会的制度として始動するCFP複合社会の本格形成期、さらには自然循環型共生社会(FP複合社会)の三者が、有機的に連関しつつ一体となって人々の意識の俎上にのぼってくる。
そして、現実世界は極めて動態的かつ複雑多様であり、未来社会論について専ら過去の理論を観念の中で訓詁学的に議論するだけでは、もはや現実を具体的、主体的に変革することはできないことに気づかされるはずだ。
CFP複合社会をはるか遠い未来への中間プロセスに位置づけ、それ自体を今日との連続性の中で社会変革の必要不可欠の階梯として重視するこの未来社会論が、過去のいかなる理論にも増して説得性を持ち、かつ具体的、実践的可能性を帯びてくる所以もここにある。
近代の価値観とはまったく異なる次元に、それとは対峙して、自然治癒力に優れ生き生きとした抗市場免疫の自律的家族、つまり「労」「農」人格一体融合の「菜園家族」を地域社会の基底に一つひとつ着実に築き上げていく。
生活の自己防衛とも言うべき民衆のこうした日常普段の人間的営為は、やがて広く国民の合意を得て、次の3節で詳しく述べるように、週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリング(但し1≦α≦4)として制度的にも確立され、地域に定着していくことであろう。
上からの「生産手段の共同所有」ではなく、民衆による主体的な「現代賃金労働者(サラリーマン)と生産手段との再結合」を基軸に論理構成される近代超克のこの「菜園家族」社会構想は、19世紀以来考えられてきた数々の未来社会論をはるかに超えて、素朴ではあるが精神性豊かな新たな社会のあり方と、そこへ到達する現実社会に根ざした、具体的かつ着実な道筋をも提起しているところにその特長がある。
それは、戦後1950年代半ばにはじまる高度経済成長の過程で無惨にも衰退していった「家族」と、その母胎とも言うべき森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)を一体的に甦らせ、農山漁村の過疎高齢化と都市の巨大化・過密化とを同時解消するとともに、「菜園家族」基調の自然循環型共生の個性豊かな基礎的「地域」を日本列島の隅々にまで一つひとつバランスよく築き上げていく。こうして国土全体をグローバル市場経済に対峙して、抗市場免疫の自律的世界にゆっくり時間をかけて熟成させていくのである。
ここからは、この“生命系の未来社会論”具現化の道としての「菜園家族」社会構想をさらに具体的に考えていくことにする。
3.週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリング(但し1≦α≦4)
人間本来の自由な時間を取り戻す
市場原理至上主義の社会にあって、市場競争の荒波に耐え、家族がまともに生きていくためには、まず家族は生きるために必要なものは、大地に直接働きかけ、できるだけ自分たちの手で作るということを基本に据えなければならない。このことによって、現金支出をできるだけ少なくおさえ、生活全体の貨幣への依存度を最小限に抑制し、市場が家族に及ぼす負の影響をできる限り小さくする。
つまりそれは、家族が苛酷な市場原理に抗する免疫を自己の体内につくり出し、自らの自然治癒力を可能な限り回復することでもある。そして、さらにはこの免疫的自然治癒力を家族内にとどまらず、家族と家族の連携によって次第に地域に広げ、抗市場免疫の自律的地域世界を構築していくことなのである。
これはいかにも素朴で単純な方法のようであるが、原理的には、こうすること以外に家族が市場競争に翻弄されることから逃れ、自由になる術はない。
週休(2+α)日制のワークシェアリング(但し1≦α≦4)による三世代「菜園家族」社会構想は、今日、自立の基盤を失い危機的状況に陥っている家族の再生と、何よりも人間の真の復活を基本目標に据えている。19世紀以来、熾烈な市場競争の中でみじめなまでに貶められ、破綻寸前にある人間の尊厳を、21世紀においてなんとか取り戻すのである。
“生命系の未来社会論”具現化の道である「菜園家族」社会構想は、この目標実現のために、本連載の第5章2節で述べた革新的「地域生態学」の理念とその方法論を基軸に、新しい社会のあり方を提起している。
戦後高度経済成長の過程で衰退した家族と、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)を一体的に甦らせ、農山漁村の過疎高齢化と都市平野部の過密を同時解消し、「菜園家族」を基調とする抗市場免疫の自律的世界、すなわち自然循環型共生の地域社会を、国土全体にバランスよく構築することをめざしている。
週休(2+α)日制のワークシェアリング(但し1≦α≦4)のαを1、2、3、4に設定すると、それぞれ週休3日制、週休4日制、週休5日制、週休6日制ということになる。つまり、人々の働き方の選択肢が、個々の家族や個人それぞれの条件に応じて、さらには社会の成熟度や社会発展の水準に照応して、より柔軟なものになることを意味している。
この週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリングの今考えられる理想的な標準的目標として、αを3に設定するならば、週休5日制となる。以下、説明の都合上、週休5日制を基本例にして具体的に説明していくことにする。
週休5日制の「菜園家族」型ワークシェアリングの場合、具体的には、人々は週のうち2日間だけ“従来型の仕事”、つまり民間の企業や国または地方の公的機関の職場に勤務する。そして、残りの5日間は、暮らしの基盤である「菜園」での栽培や手づくり加工の仕事をして生活するか、あるいは商業や手工業、サービス部門など非農業部門の自営業を営む(前者を「菜園家族」、後者を「匠商(しょうしょう)家族」と呼ぶが、ここでは両者を総称して、広義の意味での「菜園家族」とする)。
週のこの5日間は、三世代の家族構成員が力を合わせ、それぞれの年齢や経験に応じて各人の個性を発揮しつつ、自家の生産活動や家業に勤しむと同時に、ゆとりのある育児、子どもの教育、風土に根ざした文化芸術活動、スポーツ・娯楽など、自由自在に人間らしい豊かな創造的活動にも携わる。
「菜園家族」が都市から帰農して自給自足を試みる特殊な家族の特殊なケースとしてではなく、社会的に一般的な存在として成立するためには、一定の条件が必要となってくる。それが社会的に定着した制度としての週休(2+α)日制のワークシェアリングなのである。
つまり、週休5日制を例にすれば、週に2日は社会的にも法制的にも保障された従来型の仕事から、それに見合った応分の給料を安定的に確保し、その上で、週5日の「菜園」あるいは「匠・商」基盤での仕事の成果と合わせて生活が成り立つようにする。
これは一人当たりの週労働時間を短縮し、「菜園」あるいは「匠・商」を基盤にすることによって成立するいわば「短時間正社員」という新しい働き方、つまり「菜園家族」型ワークシェアリングによる新しいライフスタイルの実現とも言える。人類にとってもともとあった自己の自由な時間を取り戻す、まさに人間復活への具体的な道そのものなのである。
男女平等と個性豊かな生き方の実現
週休5日制の「菜園家族」型ワークシェアリングが実現すれば、単純に計算して、1人当たりの週の従来型の勤務の日数は5分の2に短縮され、それにともなって社会全体としては、雇用の数は2.5倍に増加する。その結果、今日ますます増大していく失業や派遣労働、パートといった劣悪で不安定な雇用を根本的に解決していく道が大きく開かれていくであろう。その上、職業選択の幅が拡大し、ゆとりのある働き方が地域社会に次第に定着していく。
これによって、住民が家族や地域に滞留し活動する時間は飛躍的に増大し、地域の自然的、人的、文化的潜在力は最大限に生かされ、大地に根ざした素朴で精神性豊かな生活とゆとりのある地域づくりが可能になってくる。
今日、とくに女性の場合は、出産や育児や家事や介護による過重な負担が強いられ、職業選択の幅が狭められている。出産・育児や介護か、それとも職業かの二者択一が迫られ、その中間項といえば、劣悪な条件のパートや派遣労働しかないのが現実である。
週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリングが定着すれば、例えば週休5日制の場合なら、男性も女性も週2日だけ「短時間正社員」として“従来型の仕事”に就けば、残りの週5日間は、「菜園」またはその他「匠・商」の自営の基盤で家族とともに暮らすことが、社会的にも法制的にも公認され、身分的にも保障される。したがって、こうした問題は次第に解消され、夫婦がともに協力し合って家事・育児・介護にあたることが可能になり、男女平等は現実のものになってくる。
このようにして、「菜園家族」型ワークシェアリングを基調とする新しい社会では、女性の「社会参加」と男性の「家庭参加」「地域参加」の条件がいっそう整っていく。結果的に、男性も女性も本当に人間らしさを回復し、多くの人々に多種多様かつ自由で創造性豊かな人間活動の場が保障されることになるであろう。
このようなゆとりのある暮らしの条件を得る中でこそ、出生率も着実に改善の方向へと向かい、少子高齢化社会は根本から解決されていくのではないか。
こうした新しい働き方は、後で触れることになるが、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)の地方自治体と、住民・市民と、企業の三者のたゆまぬ協議と、その成果としての「三者協定」の成立によってはじめて、安定した社会的制度として確立し、広く普及していくことになるであろう。
なお、この「菜園家族」社会構想における家族構成は、象徴的には祖父母、夫婦、子どもたちの三世代であると表現しているが、現実には三世代同居に加えて、三世代近居という居住形態もあらわれてくるであろう。そして、この二つの形態がおそらくは主流になりながらも、個々人の多様な個性の存在、あるいは本人の個人的意志を越えて、歴史的・社会的・経済的・身体的・健康上の要因などによってつくり出される、人間や家族の様々な事情や「個性」も尊重されるべきである。
それを前提にするならば、単身「家族」や、多様な組み合わせの家族構成があらわれたり、あるいは血縁や性別とは無関係に、個人の自由な意志に基づいて結ばれる様々な形態の「擬似家族」も想定されることを、付け加えておきたい。
「菜園家族」型ワークシェアリングは次代の画期的な社会保障制度創出の前提条件
ここで大切なことを確認しておきたい。
ここで例示してきた週休5日制とは、今考えられるあくまでも最終的に到達すべき理想的な一つのバリアントであって、これを固定的に捉えるべきではない。個々人の力量や生き方、嗜好の違い、さらには年齢や性別など家族構成の違い等々、個人や家族の事情によって、また地域の自然や農地の条件等々によって、週休6日なのか、週休5日なのか、週休4日なのか、週休3日なのかといったバリアントを自由に選択できることがとりわけ重要になってくる。
こうすることによって、個々の家族がそれぞれの現状から「菜園家族」的生活をスタートするに際して、選択の幅が広がり、よりスムーズな移行が可能になる。
“従来型の仕事”の職場では、週の中日(なかび)を引き継ぎや会議の日として設定する場合もあろう。職種の特性によって、その他にもさまざまな工夫が編み出されることになるに違いない。その結果、危惧するよりも思いのほか比較的容易にフレキシブルで多様な働き方、暮らし方が地域社会に芽生え、やがて定着していくことになるであろう。
当然のことながら、どのケースでも労働時間の長短によって差別されることなく、「同一労働同一賃金」、「均等待遇」の原則のもと、「短時間正規雇用」としてのそれぞれのバリアントに応分の給与所得と労働者としての基本的権利、そして何よりも「菜園」、あるいは「匠・商基盤」が公的に保障されることになる。
それと同時に、子育て、教育、医療、年金、介護、生活保護等々については、「菜園家族」社会構想の理念に基づく新たなライフスタイルに見合った、未だかつて見ることのなかった、それこそ弱者を決して排除することのない画期的な21世紀型の素晴らしい社会保障制度(本連載の第12章 「『菜園家族』を土台に築く近代超克の先進福祉大国」で後述)が確立されていく必要がある。
これこそが、人間らしく生きる素朴で精神性豊かな“いのち輝く未来社会”のあり方なのである。
21世紀の今日、市場競争至上主義の猛威の中、ほとんどの人々が絶望的とも言える社会の不条理に苦しめられている。大多数の人々は、本当はうわべだけの「豊かさ」や上からのお仕着せがましい「安心」などではなく、大地に根を下ろし、自然ととけあい、家族や友人、そして見知らぬ人たちとも、仲良くおおらかに楽しく生きていきたいと望んでいる。現状に馴らされ、とうに忘れてしまったこの素朴な思いこそが、人間本来の願いであったはずだ。
週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリングは、多くの人々のこの切なる願いを叶える新しい社会への道を切り拓く、究極の決定的な鍵となる。そしてそれは、いつの間にか「正規」、「非正規」という、まるで別々の人間であるかのように分断された現代の私たちに、もう一度、同じいのち、同じ生きる権利を持った、同じ人間同士としての地平に立って考えなおし再出発する、またとない大切なきっかけを与えてくれるにちがいない。
今日の日本社会の行き詰まりと、将来不安に苛まれた精神の閉塞状況を打開する道は、どんなに時間がかかろうともこれを措いてほかにないのではないだろうか。
4.世界に類例を見ないCFP複合社会 ―史上はじめての試み―
週休(2+α)日制のワークシェアリング(但し1≦α≦4)による三世代「菜園家族」を基盤に構築される日本社会とは、一体どのような類型の社会になるのか、まずその骨格に触れたい。
それは、「労」「農」人格一体融合の抗市場免疫に優れた「菜園家族」を土台に、素朴で精神性豊かな自然循環型共生の理念を志向する真に民主的な地方自治体と、これらを強固な基盤に成立する国レベルの民主的政府のもとで、本格的な形成過程に入るのであるが、この社会はおそらく、今日のアメリカ型資本主義社会でも、イギリス・ドイツ・フランス・スペイン・北欧などの資本主義社会でもない、あるいはかつての「ソ連型社会主義」や今日の「中国型社会主義」、そして「ベトナム型社会主義」のいずれでもない、まったく新しいタイプの社会が想定される。
「菜園家族」社会構想によるこの新たな社会の特質は、大きく3つのセクターから成り立つ複合社会である。第1は、きわめて厳格に規制され、調整された資本主義セクターである。第2は、週休(2+α)日制のワークシェアリングによる三世代「菜園家族」を主体に、その他「匠・商基盤」の自営業を含む家族小経営セクターである。そして、第3は、国や都道府県・市町村の行政官庁、教育・文化・医療・社会福祉などの国公立機関、その他の公共性の高い事業機関やNPOや協同組合などからなる、公共的セクターである。
第1の資本主義セクターをセクターC(CapitalismのC)、第2の家族小経営セクターをセクターF(FamilyのF)、第3の公共的セクターをセクターP(PublicのP)とすると、この新しい複合社会は、より正確に規定すれば、「菜園家族」を基調とするCFP複合社会と言うことができる。
セクターFの主要な構成要素である「菜園家族」にとっては、四季の変化に応じてめぐり来る生産と生活の循環がいのちである。したがって、「菜園家族」においては、この循環の持続が何よりも大切で、それにふさわしい農地や生産用具や生活用具を備えることが必要である。また、それらの損耗部分は、絶えず補填しなければならない。主としてこうした用具や機器の製造と、その損耗部分の補填のための工業生産を、セクターCが担う。
次に、セクターCが担うもう一つの大切な役割は、国内向けおよび輸出用工業製品の生産である。ただし、これも生産量としては、きわめて限定される。日本にはない資源や不足する資源が当然あり、これらは、外国からの輸入に頼らなければならない。輸出用工業製品の生産は、基本的には、この国内にはない資源や不足する資源を輸入するために必要な資金の限度額内に、抑えられるべきである。
今日の工業生産と比べれば、それははるかに縮小された水準になるにちがいない。従来のように国内の農業を切り捨て、「途上国」の地下鉱物資源を際限なく乱開発してまでも工業生産を拡大し、貿易を無節操に拡張しなければ成り立たない経済とは、まったく次元の異なったものが想定される。理性的に抑制された調整貿易のもとで、できるかぎり農・工業製品の「地産地消」を追求していく。
一方、勤労者の側面から見ると、「菜園家族」の構成員は、週休(2+α)日制のワークシェアリング(但し1≦α≦4)のもとで、例えば週休5日制の場合、“従来型の仕事”つまりセクターCあるいはセクターPで週2日働くと同時に、セクターFの「菜園」またはその他非農業部門の「匠・商」の自営業に5日間携わることになる。その結果、自給自足度の高い、生活基盤のきわめて安定した勤労者になるであろう。
したがって、夫婦それぞれがセクターCあるいはセクターPの職場から得る応分の賃金所得をあわせれば、十分に生活できるように制度設計し、調整することは可能なはずである。
このように考えてくると、企業の立場からすれば、従来のように従業員とその家族の生活を、賃金のみで100パーセント保障する必要はなくなる。企業は、きわめて自足・自律度の高い人間を雇用することになるからである。
もちろんそれは、今日横行している使い捨て自由な不安定雇用とは、まったく違ったものになる。週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリングのもとでは、従業員は労働時間の長短によって差別されることなく、「同一労働同一賃金」、「均等待遇」の原則のもと、「短時間正規雇用」として労働者の基本的権利を保障され、かつ「菜園」や「匠・商」の自立の基盤も同時に公的に保障されることが前提だからである。
したがって、労使の関係も対等で平等なものに変わり、その上、企業間の市場競争も今日よりもはるかに緩和され、穏やかなものになるであろう。
このようになれば、企業は、今日のように必死になって外国に工業製品を輸出し、貿易摩擦を拡大し、国際間の競争を激化させ、「途上国」に対しては、結果的に経済的な従属を強いるようなことにはならないはずである。
むしろ人々の関心と力と知恵は国内に集中され、科学技術の成果は、市場競争のためのコスト削減や売らんがために人々の欲望を掻き立てる目新しい商品開発に向けられるのではなく、もっぱら「菜園家族」を基調とするこの自然循環型共生社会の充実に向けられ、科学技術の本来の目的である人間労働の軽減や人間の幸せのために役立てられることになるにちがいない※ 。
CFP複合社会のセクターの構成に関連して、若干、補足しておきたい。
家族小経営セクターFを主に構成するのは「菜園家族」であるが、流通・サービス部門における八百屋さんや肉屋さんやパン屋さんなどの食料品店や日用雑貨店、そして食堂・レストラン・喫茶店など非農業部門の自営業も、家族小経営の範疇に入ることから、当然このセクターFを構成する重要な要素になる。
このCFP複合社会にあっては、流通・サービス部門は、基本的には家族小経営によって担われるのが基本になるが、社会の要請に応えてある一定限度の規模拡大がどうしても必要な場合には、今日の営利至上の大規模量販店に比して多少効率が低下するとしても、生活消費協同組合がそれらを担い、流通・サービス部門での市場競争の激化を抑制することが大切になる。
次にセクターPについてであるが、このセクターは、きわめて公共性の高い部門である。中央省庁や地方の行政官庁のほかに、教育・文化・芸術・医療・介護・その他福祉等々、公共性の高い事業や組織・機構、各種協同組合やNPOなどが主要な柱になる。
そのほか、特別に公共性が高く、社会的にも大きな影響力を持つ報道メディア(新聞・ラジオ・テレビ等)は、その公共性にふさわしい組織・運営が考えられてしかるべきであろう。
また、郵便・電話・情報通信、交通(鉄道・航空・海運等)、上下水道、エネルギー(電力・ガス等)、さらには金融などの事業についても、その社会的役割や公共性を考える時、安易に効率性や利用者の目先の利便性だけを求めるべきではなく、「菜園家族」社会にふさわしい組織・運営のあり方が研究されなければならない。
CFP複合社会のこれら3つのセクター間の相互関係は、固定的に考えるのではなく、この社会全体の成熟度や具体的な現実に規定されながら、流動的に変化、進化していくものと見るべきである。
※ 本連載の第11章「『菜園家族』の台頭と資本の自然遡行的分散過程 ―新たな科学技術体系の生成・進化の可能性―」で後述。
CFP複合社会の特質
「菜園家族」を基調とするCFP複合社会の重要な特徴について、もう一度ここで整理し、確認しておこう。
週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリング(但し1≦α≦4)によるこのCFP複合社会では、まず第一に、ある特定の個人が投入する週労働日数は、例えば週休5日制の場合、資本主義セクターCまたは公共的セクターPに2日間、そして家族小経営セクターFに5日間と、それぞれ2対5の割合で振り分けられる。
従来のいわゆるGDP(国内総生産)には、個人の私的な自給の枠内での生活資料の生産や家事・育児・介護などのサービス労働、さらには非商品の私的な文化・芸術活動などによって新たに生み出される使用価値は反映されていない。
今ここで、これらも含めて、国内のすべての生産労働によって新たに生み出される使用価値の実際の総量を考える時、週休5日制のCFP複合社会では、この新たに生み出される使用価値の総量に占める家族小経営セクターFの割合は、単純に計算すると7分の5となり、圧倒的に大きな比重を占めることになる。このこと自体が、資本主義セクターCによる市場原理の作動を、社会全体として大きく抑制することになる※ 。
そして第二に、家族小経営セクターFに所属する自給自足度の高い「菜園家族」またはその他「匠・商」の自営業家族の構成員は、同時に、資本主義セクターCの企業またはセクターPの公共的職場で働く、賃金依存度のきわめて低い勤労者であるという、「労」「農」一体融合の二重化された人格になっている。こうした二重化された人格の存在によって、市場原理の作動を自然に抑制する仕組みが、所与のものとして社会の中に埋め込まれることになる。
この2点が、CFP複合社会の特質を規定する重要な鍵になっている。
先述の「使用価値の総量」において、家族小経営セクターFが占める割合を7分の5、つまり週休5日制にするのか、あるいは7分の4、つまり週休4日制にするのか。どのような比率でこの仕組みを社会に埋め込むかによって、その市場原理への抑制力は、かなり違ったものになるはずである。
現実にCFP複合社会を創出する過程では、中間的移行措置として、先にも触れたように、週休(2+α)日制のαを1、2、3、4と漸次高めながら導入する方法も考えられるであろう。
週休(2+α)日制のワークシェアリングによるCFP複合社会にあっては、今指摘したように、個人の労働の側面から見れば、例えば週休5日制の場合、セクターCまたはセクターPには、週7日のうち2日しか労働が投入されていないことになる。
したがって、“従来型の仕事”の分野には、単純に計算して、週5日の勤務形態で雇用する場合に比べて、社会的には2.5倍の人員の雇用が可能になり、よりおおくの人々がさまざまな職種に就ける可能性が開けてくる。
その上、週のうち2日間をセクターCまたはセクターPで働く人は、同時にセクターFでも5日間、「菜園家族」またはその他「匠・商」の自営業の成員として働いていることから、この複合社会にあっては、ほとんどの人々の自給自足度が高くなり、生活基盤もより安定し、精神的余裕も出てくる。
それに伴って、セクターCまたはセクターPでの職業選択に際しては、従来よりもはるかに自由に、自己の才能や能力、あるいはそれぞれの生活条件や志向にあった多様な選択ができるようになるであろう。
※ 詳しくは、本連載の第11章「『菜園家族』の台頭と資本の自然遡行的分散過程」で後述。
◆「いのち輝く共生の大地」第6章(その1)の引用・参考文献(一部映像作品を含む)◆
映画『ここに泉あり』監督 今井正、中央映画 製作、独立映画 配給、1955年
小貫雅男・伊藤恵子『森と海を結ぶ菜園家族 ―21世紀の未来社会論―』人文書院、2004年
宇沢弘文・内橋克人『始まっている未来 ―新しい経済学は可能か―』岩波書店、2009年
河野直践「<半日農業論>の研究 ―その系譜と現段階」『茨城大学人文学部紀要』第45号、2008年
澤佳成『開発と<農>の哲学 ―<いのち>と自由を基盤としたガバナンスへ―』はるか書房、2023年
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★ 長編連載「いのち輝く共生の大地 ―私たちがめざす未来社会―」の≪目次一覧≫は、下記リンクのページをご覧ください。
https://www.satoken-nomad.com/archives/4114
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2024年11月1日
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