長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第5章
長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―
第二部 生命系の未来社会論の前提
―その方法論の革新のために―
第5章
21世紀、私たちがめざす未来社会 ―その理念と方法論の革新―
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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第5章
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1.19世紀未来社会論の到達点と限界
近代に先立って現れた民衆の自然権的共産主義の先駆的思想
イギリス産業革命が進行し、近代資本主義が形成される中で生まれてきた、ロバート・オウエンなどのいわゆる空想的社会主義といわれる一連の思想や、今日では高校の教科書にも記述されている社会主義とか共産主義という用語の根底に流れる思想は、はたして近代に限られた近代特有の産物であったのであろうか。決してそうではない。
それは、近代以前の古き時代から人類史の中に脈々として伝えられ、人々の心を動かし、時には民衆による支配層への激しい抵抗や闘いをよびおこし支えてきた、根源的な思潮ともいえる。
それは、私利私欲に走るあさましさ、人間が人間を支配する不公正さ、抑圧される人々の貧困や悲惨さへの憤りに発する思想でもあり、人間の協同と調和と自由に彩られた生活を理想とする人類の根源的な悲願でもあり、したがって、おのずから時代を超えて繰り返し生まれてくる思潮にほかならない。
キリスト教も「貧しきものは幸いなり」とし、私利私欲を堕落とみなし、少なくともその初期には、共有財産による共産主義的教団生活を理想としていた。中世においても、キリスト教の教父たちやスコラ哲学の信奉者たちの中には、人類始原の自然状態における人々の自然権は、私有財産による貧富の差別をともなわず、すべてのものの共有にもとづく公正で自由で平等な生活を実現するものであったと考え、この理想的自然状態を、私有財産成立後の人間の腐敗堕落の状態と対比して発想する人たちが、少なからずいた。
こうした思潮の伝統は、中世末期から、農民一揆を支える思想として、現実的な影響力を示していた。神や仏の前に、人間は本来、平等であり、財産や身分による差別は不当であり、来世での救済だけではなく、この世においても公正で共同的な生活を実現する世直しがなされなければならないという思想は、ヨーロッパだけではなく、世界各地の宗教の内にあらわれ、時には激しい農民の一揆や反乱を支えた。
日本でも、15世紀後半から100年にもおよび、近畿・北陸・東海に広がった浄土真宗門徒による一向一揆、さらには、江戸時代を通じて各地に展開した農民一揆などに、こうした思想が色濃く認められる。
江戸中期に『自然真営道』を著した安藤昌益(1703~1762)は、自然の営みと「直耕」の人々の生産活動を基本として、共有、皆労、平等の共同生活を「自然世(じねんのよ)」として実現することを呼びかけている※ 。彼の考えは自然生的ではあるけれども、世界史的にも先駆的で独創的な共産主義思想に到達したものであるとして、評価されている。
※ 本連載のエピローグの2節の項目「自然観と社会観の分離を排し、両者合一の思想を社会変革のすべての基礎におく」で後述。
人類の歴史は民衆の心に根ざす自然権的思潮の終わりのない「否定の否定」の弁証法
近代に先だってあらわれた、これらの先駆的な自然権的共産主義思想は、おおくの場合、人類始原の自然状態における、差別や抑圧のない共同的で平等な生活を理想とする見地に立っていた。このような見地から、私有財産とそれをめぐる私利私欲は、身分的な支配隷属関係とともに、人間の腐敗や堕落をもたらすものとして、批判されている。
現存社会の荒廃や抑圧や不公正が、人間の本来あるべき原初の姿と対比して、不自然で歪んだ社会状態であると批判するこの思想は、人間の根源に根ざす普遍的な思想であるだけに、今日までたえず繰り返しあらわれてきたし、これからも繰り返しあらわれてくるにちがいない。そして、その自然権的思潮は、その時代時代の社会と思想の到達水準に照応した新たな内容を盛り込み、新しい形式をととのえて再生されることになる。
太古の人間社会の共有、平等、自由の自然状態を歪めてきたものは、何であり、誰であるのかの疑念が深まれば深まるほど、やがてその考えが科学に転化していくのは、自然の成り行きでもあった。商品経済による有産階層の権利を自然視する啓蒙主義的思想で代替して済まされるものではなかったのである。
むしろ、人間に本来的で根源的な基本的人権とは何か、自然と人間、人間と人間との関係を律すべき根本の原則とはいかなるものなのか、資本主義的商品経済のもとでの人間の疎外や自然の荒廃の原因は何なのか、その究明へとむかっていくのである。
19世紀、マルクスやエンゲルスたちの新たな思想とその理論も、まさしくこうした人類史の基底に脈々として流れる自然権にもとづく民衆の根源的な思想を受け継ぎ、さらに19世紀30年代以降のイギリス資本主義の新たな発展と、それに内在する対立・矛盾とを組み込む形で、必然的にあらわれてきたものであると言わなければならない。
それから200年近くが経った。私たちに今、問われているのは、21世紀の今日の世界とわが国の新たな時代状況の中で、そこに内在する新たな対立と矛盾を組み込みながら、如何にして私たち自身の思想と理論を高次の段階へと発展させていくのかという、人類史を貫く民衆共通の根源的願いに連なる課題そのものなのである。
「否定の否定」の弁証法は、今日のこの時点で途絶えるはずがない。これからも繰り返されていくであろう。その停止は、世界の死を意味するのである。
19世紀に到達したマルクスの未来社会論
マルクス・エンゲルスの最大の功績は、徹底した唯物論哲学を基礎に、人類の始原から近代資本主義に至る人類の全史を見通して総括しうる唯物史観を確立し、これを「導きの糸」として、経済学の研究によって資本主義の内的矛盾とその運動を解明し、資本主義経済学の原理論を確立した点にある。
これにひきかえ、意外に思われるかもしれないが、マルクスやエンゲルスの膨大な著作の中には、未来社会についての具体的で詳細な体系的プランはなく、ごく簡単にしか示されていない。
マルクス以前のロバート・オウエンやサン・シモン、フーリエなどによるユートピア的社会主義が、未来社会の詳細な設計図を描いていたのに比べ、あまりにも叙述が少ないことについては、これまでにもしばしば指摘されてきたところである。
このことは、マルクスやエンゲルスの研究の目的・課題の焦点が、当時の状況においてどこにあったのかということにも、おおいに関連しているように思われる。
それは、マルクスにとっては、ヘーゲルの観念論哲学とその社会観の批判からはじまって、さらに、それに対置する唯物史観を確立し、それを「導きの糸」として経済学の本格的な研究に取り組み、資本主義の運動法則を徹底的に解明することが最大の目的であり、またその時代がマルクスに要請した最大の課題でもあったからである。
それから、もう一つの理由は、今から百数十年前の19世紀の後半には、すでに資本主義は確立していたものの、まだ発展途上にあったということである。マルクス自身の理論からしても、社会革命は資本主義に内在する法則にしたがい、生産力の一定の高まりによって生産関係が変革されること、また変革主体としての労働者階級の質と量の一定の発展水準を待たなければならないこと、こうした諸条件が具体的に把握できていない段階で、未来社会の具体的プランや見取図を詳細に提示すること自体、慎重であるべきだという考えに基づいていたのである。
たしかにマルクス・エンゲルスは、人類史を総括し、資本主義社会の運動法則の解明を通じて、社会主義・共産主義への移行の必然性を明らかにすることによって、資本主義にかわる未来社会への壮大な展望を示すことができたのであるが、未来社会についての具体的で詳細な設計図やプランの提示には、今述べたような理由から極めて慎重であったのは確かである。しかし、未来社会の問題に全く触れていなかったわけではない。
マルクスとエンゲルスの共同執筆による初期の歴史的文書『共産党宣言』(1848年)の中には、資本主義にかわる未来社会についての大まかではあるが比較的まとまった叙述がある。
その中では、まずはじめに、今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史であるとおさえた上で、労働者革命の第一歩は、労働者階級を支配階級にまで高めること、民主主義を闘いとることであると述べている。
そして労働者階級は、資本家から次第にいっさいの資本をうばいとり、いっさいの生産用具を、国家すなわち支配階級として組織された労働者階級の手に集中し、生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるために、その政治的支配を利用するであろうと述べている。
もちろんこのことは、はじめは所有権と資本主義的生産諸関係への専制的な規制を通じてのみ、おこなわれるものであり、したがって、これらは経済的には不十分で、長もちしえないように見えるが、運動がすすむにつれて自分自身をのりこえて前進し、しかも全生産様式を変革する手段として不可欠であるような諸方策によってのみおこなわれるのである、としている。
これらの方策は当然、国によって色々であろう。しかし、最もすすんだ国々では、次のような諸方策がかなり全般的に適用されるであろうとして、10項目の方策を具体的に挙げている。
その後も、マルクスは断片的ではあるが、未来社会論に触れて自身の見解をさまざまな形で述べているが、資本主義の根本矛盾を「生産手段の社会的規模での共同所有を基礎におく、社会的規模での共同管理・共同運営」によって、すなわち「上からの統治」によって克服し、未来社会を展望するというこの『宣言』の基本線は崩していないと見るべきであろう。
ところで、「上からの統治」の思想は、古代奴隷制にはじまり、中世農奴制、近代資本主義、そして今日においてもそうなのであるが、人類が長きにわたって引き継いできた根強い負の思想的遺産である。
それはもともと支配層に固有の思想でありながら、民衆の心の中にも深く浸透し、その時々の時代相応の内容を組み込む形で強化され、支配、被支配層双方が相俟って、実に執拗に繰り返し再生産されてきたのである。残念ながら一般民衆もいつしかそれに馴らされてしまい、今や当たり前の常識にすらなってしまった。
19世紀の未来社会論、特にマルクス・エンゲルスの初期の著作にあたる『宣言』は、母胎とも言うべき近代からの訣別を意図しながらも、前代からのへその緒を依然として引きずり、なかんずく「上からの統治」の根深い思想を払拭しきれずに、その母斑を色濃く留めていると言わざるを得ない。
近代社会の本質は資本と賃金労働の対立構図にあり、近代を超克するとは、最終的には資本と賃労働の両者を克服し止揚することなのであるが、結局、19世紀の未来社会論においては、前近代からの負の遺産であるこの「上からの統治」の根深い思想を完全に払拭しきれずに、専制的独裁への契機を孕む「生産手段の社会的規模での共同所有を基礎におく、社会的規模での共同管理・共同運営」という道を不覚にも優先・先行させることを許し、まさにそれに依拠した「上からの資本の廃絶」をめざすものになっている。
その結果、もう一方の賃労働それ自体の克服の問題については、賃金労働者の自己変革による自らの主体性確立のプロセスを遅らせ、あるいは閉ざすこととなり、それがその後の20世紀の現実の社会主義形成期において、民主主義の欠如と専制的独裁体制を生み出す重大な土壌ともなって、やがて体制そのものの崩壊へとつながっていったのである。
今こそ19世紀未来社会論に代わる、私たち自身の草の根の21世紀未来社会論を
19世紀、マルクスやエンゲルスたちにとって、歴史観の探究とその構築(人類史総括としての歴史学研究)は、経済学研究の導きの糸であった。その意味で歴史観の構築と経済学の研究は、紛れもなく車の両輪となっていた。
こうした包括的で全一体的(ホリスティック)な研究の成果から自ずと導き出された19世紀のマルクス未来社会論(生産手段の社会的規模での共同所有に基礎をおく共同管理・共同運営によって、資本主義の根本矛盾を克服し、未来社会を展望する)は、19世紀から20世紀に生きる人々にとって、それがその後どんな結末をもたらしたかは別にしても、時代の行く手を照らし出す光明となって、確かにある時期までは夢と希望と生きる目標を与え、現実世界をも動かす民衆の原動力となっていたことは、間違いのない歴史的事実であろう。
しかし、20世紀末のソ連、東欧、モンゴルをはじめとする社会主義体制の崩壊と、21世紀の今日、現に進行している中国「社会主義」の変質という歴然たる事実によって、そして何よりもマルクス未来社会論が提示されてからおよそ170年という歳月を経た世界と社会の大きな変化によって、資本主義超克としての19世紀未来社会論の理論的限界と欠陥は、一気に露呈することになった。
その根本原因は、先にも述べたように、前近代からの負の遺産とも言うべき「上からの統治」の根深い思想を払拭しきれずに、「生産手段の社会的規模での共同所有を基礎におく、社会的規模での共同管理・共同運営」を優先・先行させるという、19世紀未来社会論の核心そのものに胚胎していたと言えよう。
端的に述べるならば、家族小経営を軽視し、人間のいのちの再生産に最低限度必要不可欠な土地や生産用具、つまり生産手段を人間から切り離したまま、根なし草同然の賃金労働者(近代における高次奴隷身分※ )の大群を一国規模のピラミッドの土台の基底に据えおいた状態で、社会的規模での共同所有を重視するあまり、それを優先・先行させること自体に根源的問題があったと見るべきである。
自立の基盤を失い、自己鍛錬と自己の主体形成の小経営的基盤を失った人間は、個性の多様な発達の条件をも根底から奪われ、長期的に見れば人間の画一化の傾向を辿らざるをえない。こうした社会的土台は、中央集権的専制支配を許す土壌に転化する危険性を当初から孕んでいたことに刮目すべきである。
本連載で提起する、革新的「地域生態学」に基づく草の根の21世紀“生命系の未来社会論”、その具現化の道である「菜園家族」社会構想を貫く問題意識は、まさにこの点にある。つまり、今ではすっかり常識となった、近代の落とし子とも言うべき根なし草同然の賃金労働者という人間の社会的生存形態そのものの自己変革を、何よりもまず賃金労働者自らが主体的にはじめるよう迫られているのである。
21世紀の今求められているのは、専制的独裁への契機を孕む「生産手段の社会的規模での共同所有を基礎におく、社会的規模での共同管理・共同運営」を性急に導入し、それに依拠して「上からの資本の廃絶」を優先・先行させる道ではなく、あくまでも「労働主体そのものの下からの自己変革」を重視することによって、「資本と賃労働の対立構図」を根源的に止揚し、未来への展望を切り開くことなのである。
すなわちそれは、賃金労働者が生産手段(生きるに必要な最低限度の農地と生産用具と家屋等々)との「再結合」を果たすことによって、根なし草同然の自らの人間の社会的生存形態(賃金労働者)そのものを主体的に自己変革し、「労」「農」人格一体融合の抗市場免疫に優れた自律的な新しい人間の社会的生存形態(「菜園家族」)へと止揚すること。これによって、社会の基層に沈滞し、崩壊寸前にある地域コミュニティの再生を現実のものとし、その潜在能力の最大限の発揚を可能にする。
これこそが、民衆自身による近代超克の社会変革にとって、避けてはならない自己の主体形成の過程なのである。
この過程を閉ざしてきた遠因は、19世紀未来社会論の先の核心部分にあると言ってもいい。これは、社会主義的変革に限らず、世界各国、各地域におけるあらゆる時代にも通底する問題でもある。
現に先進資本主義国、なかんずくわが国にも顕著に見られるように、人々の意識もあらゆる政党も、いつしか近代の悪弊とも言うべき欺瞞の「選挙」の罠にはめられ、埋没していく。果てには民衆の精神の真髄すら冒され、「お任せ民主主義」が蔓延し、草の根民主主義の芽をことごとく摘み取られていく。
今日のこの民主主義の衰退と堕落を生み出した遠因も、まさに民衆の主体性を無視したこうした「上からの統治」の根深い思想を、21世紀の今日においても、いまだに払拭できずにいることにあると言ってもいいのではないか。
20世紀も終わり21世紀初頭の今、私たちは、2011年3・11の巨大地震と巨大津波、東京電力福島第一原子力発電所の苛酷事故という未曾有の大災害、2020年新型コロナウイルス・パンデミック、そしてウクライナ戦争、ガザ戦争を境に、社会が大きく転換する時代の奔流のまっただ中に立たされている。
精彩を失ったかつての19世紀未来社会論に代わる、21世紀の私たち自身の新たな草の根の未来社会論を今なお探りあぐね、人々は、不確定な未来と現実の混沌と閉塞状況の中で、明日への希望を失っている。
まさに今日、21世紀全時代を貫き展望するに足る未来像の欠如こそが、東日本大震災の被災地の復興のみならず、このたびの新型コロナウイルス・パンデミック下においても、日本各地の地域再生の混迷と労働運動の沈滞にさらなる拍車をかけ、そこに生きる人々を諦念と絶望の淵に追い遣っている。
この地域の現実と労働の現場に気づかなければならない。私たちは、いつ止むとも知れぬ暴風雨の荒れ狂う大海を羅針盤なしで航海を続け、さ迷っているといってもいい。
手をこまねきそうこうしているうちに、現実は容赦なく進行していく。市場原理至上主義「拡大経済」のもと新自由主義的思潮の奔流に巻き込まれ、生命の源ともいうべき自然は破壊され、人間生活の基盤となる「家族」と「地域」はいよいよ土台から揺らぎ、ついには崩壊の危機に晒されていく。
生産力至上主義のもと科学技術と市場原理主義が手を結ぶ時、人間社会は止めどもなく暴走し、結局その行き着く先は人類破滅の恐るべき結末になるのだということを、何よりもフクシマは決してあってはならない自らの惨状をもって、私たちに警告したのではなかったのか。今こそ一刻も早く近代の「成長神話」の呪縛から解き放たれ、やがて来る未来のあるべき姿を確かなものにしなければならない。
かつての19世紀未来社会論の優れた側面を継承しつつも、その限界と欠陥を根源的に克服し、イギリス産業革命以来の近代を超克する21世紀の未来社会論としても同時に成立し得る、私たち自身の草の根の21世紀社会構想をいよいよ深めていかなければならない時に来ている。
そのためには何よりもまず、今日の日本社会と世界の行き詰まったこのどうしようもない現実そのものに向き合い、その個別具体的現実から着実に帰納することによって、これまでの思考の枠組み(パラダイム)と方法を根源的に問い直すことから再出発するよう迫られているのである。
※ 本連載のエピローグ「高次自然社会への道」の2節「人類史を貫く『否定の否定』の弁証法」で後述。
2.21世紀の未来社会論、そのパラダイムと方法論の革新
21世紀の今日にふさわしい新たな歴史観の探究を
今述べてきた時代認識に立つ時、21世紀の新たな未来社会論の構築に先立って、今日、何よりも切実に求められているものは、19世紀近代の歴史観に代わる新たな歴史観の探究であり、確立であろう。
それはとりもなおさず、大自然界の摂理に背く核エネルギーの利用という事態にまで至らしめた、少なくとも18世紀以来の生産力至上主義の近代主義的歴史観に終止符を打ち、21世紀の時代要請に応えうる新たな歴史観を探究することであろう。
そして、やがて構築されるこの新たな歴史観と、そこから自ずと導き出される革新的地域研究としての「地域生態学」に裏打ちされた新たな「経済学」とを両輪に、21世紀の未来社会論は確立されていく。
大自然界の摂理に背く核エネルギーの利用に手を染め、恐るべき惨禍を体験するに至った私たちは、自然と人間、人間と人間の関係をあらためて捉え直すよう迫られている。第1章3節で述べたように、大自然界と人間社会をあらためて統一的に捉え直そうとするならば、宇宙、地球、そして生命をも包摂する大自然界の生成・進化を貫くきわめて自然生的(ナチュラル)な「適応・調整」の原理(=「自己組織化」)が、私たち人間社会にも、その普遍的原理として基本的には貫徹していることに気づかされるのである。
しかし、人類は大自然の一部でありながら、ある時点からは他の生物には見られない特異な進化を遂げ、ある歴史的段階から人間社会は、自然界の生成・進化を貫く「適応・調整」の原理(=「自己組織化」)とはまったく違った異質の原理、つまり人間の欲望に深く根ざした「指揮・統制・支配」の特殊原理によって動かされてきた。人間と人間社会の業の深さを思い知らされるのである。
今こそ広大無窮の宇宙の生成・進化の歴史の中で、あらためて自然と人間、人間と人間の関係を捉え直し、私たち人間の社会的生存形態を根源から問い直す必要に迫られている。そして、市場原理至上主義「拡大経済」下の今ではすでに常識となっている現代賃金労働者(サラリーマン)という人間の社会的生存形態とは、一体いかなるものであるのか、生命の淵源を辿り、人類史という長いスパンの中でもう一度、その性格と本質を見極め、その歴史的限界を明らかにしなければならない。
賃金労働者(高次奴隷身分)という根なし草同然の人間の社会的生存形態を暗黙の前提とする近代の思想と人間観が、当初の理念とは別に、現実生活において結局は人々をことごとく拝金・拝物主義に追いやり、人間の尊厳を貶め、人間の生命を軽んじてきたとするならば、今こそそれを根源から超克しうる、「生命本位史観」ともいうべき21世紀の新たな歴史観の探究に着手しなければならない時に来ている。
それはまた、人間社会を壮大な宇宙の生成・進化の歴史の中に位置づけ、それを生物個体としてのヒトの体に似せてモジュール化して捉えるならば、「社会生物史観」とも言うべきものなのかも知れない。
この新たな歴史観に基づく未来社会論の探究は、まさに諸学の革新の大前提となるべき学問的営為であるが、その研究状況は、時代が求める切実な要請からはあまりにも遅れていると言わざるをえない。しかし、この営為を抜きにしては、今日求められている本当の意味でのパラダイムの転換はありえないであろう。
特に時代の大転換期においてはなおのこと、社会理論の再構築は、具体的現実から出発し、抽象へと向かうものでなければならない。専ら抽象のレベルから抽象へと渡りながら、抽象レベルでの概念操作 ―― 概念間の連関性や整合性のみの検証に終始し、それを延々と繰り返すいわば訓詁学的手法だけでは、新たな時代に応えうるパラダイムの転換も、それに基づく新たな理論も生まれるはずがない。
今こそ21世紀の具体的現実世界に立ち返り、そこから再出発し、何よりもまず21世紀の新たな歴史観の探究と構築に努め、それを導きの糸に、新しい時代の要請に応えうる広い意味での「経済学研究」、そして革新的地域研究としての「地域生態学」の確立に取り組まなければならない。
こうした努力の延長線上に、わが国の現実に立脚した、まさに21世紀私たち自身の草の根の未来社会論は再構築されていくにちがいない。
21世紀未来社会論の核心に「地域生態学」的理念と方法をしっかり据える
ところで、私たちが今生きている21世紀現代社会は、分かり易く単純化して言うならば、「家族」、「地域」、「国」、「グローバルな世界」といった具合に、多重・重層的な階層構造を成している。
最上位の階層に君臨する巨大金融資本が、あらゆるモノやカネや人間や情報の流れを統御支配する。そしてそれは、それ自身の論理によって、賃金労働者(高次奴隷身分)という根なし草同然の人間の社会的生存形態を再生産するとともに、同時に社会のその存立基盤そのものをも根底から切り崩しつつ、この巨大システムの最下位の基礎階層に位置する「家族」や「地域」の固有の機能をことごとく撹乱し、衰退させていく。
このことが今や逆に、この多重・重層的な階層システムの巨大な構造そのものを土台から朽ち果てさせ、揺るがしている。
まさにこれこそが、近代経済学が機能不全に陥った要因の根源であり、同時に治療の術を失った末期重症の現代資本主義の姿ではないのか。これが今日のわが国社会の、そして各国社会の例外なく直面している現実なのである。
人間社会の基礎代謝をミクロのレベルで直接的に担う、まさに「家族」と「地域」の再生産を破壊する限り、どんなに見かけは繁栄していても、現代社会のこの巨大な構造は、決して安泰ではいられないであろう。
そうだとすれば、社会の大転換期にさしかかった今日の時代においてはなおのこと、経済成長率偏重のこれまでの典型的な「近代経済学」の狭隘な経済主義的分析・視角からは、こうした現代社会の本質をより深層からトータルに把握し、その上で未来社会を展望することはますます困難になってくるのではないか。
私たちは今、このことに気づかなければならない。
21世紀の未来社会を構想するためには、こうした時代の変革期に差しかかっているからこそなおのこと、現代社会のこの巨大な構造の最下位の基礎階層に位置する「家族」や「地域」から出発して、それを基軸に社会を全一体的(ホリスティック)に考察する、今日の時代に応えうる革新的地域研究としての「地域生態学」が、いよいよ重要不可欠になってきている。
では、ここで問題にしたい括弧付きの「地域」とは、そして21世紀の今日の時代が求めている「地域生態学」とは一体何なのであろうか。今あらためて考え直さなければならない時に来ている。
「地域」とは、自然と人間の基礎的物質代謝の場、暮らしの場、いのちの再生産の場としての、人間の絆によるひとつのまとまりある最小の社会的、地理的、自然的基礎単位である。
この基礎的「地域」は、いくつかの「家族」によって構成され、日本の場合であれば、多くは伝統的な少なくとも近世江戸以来のムラ集落の系譜を引き継ぐものである。人間社会は、「家族」、基礎的「地域」(=ムラ集落)、さらにはその上位の町、郡、県などいくつかの階梯を経てより広域へと次第に拡張しつつ、多重・重層的な地域階層構造を築きあげている。
したがって、この基礎的「地域」は、人間社会全体を総合的かつ深く理解するために必要なすべての要素が完全なまでにぎっしり詰まっているがゆえに、社会考察の不可欠の鍵にして重要な基本的対象となる。
人間とその社会への洞察は、とりとめもなく広大な現実世界の中から、任意に典型的なこの基礎的「地域」を抽出し、これを多重・重層的な地域階層構造全体の中に絶えず位置づけながら、長期にわたり複眼的、かつ総合的に調査・研究することによってはじめて深まっていく。
特に21世紀現代においては、世界のいかなる辺境にある「地域」も、いわゆる先進工業国の「地域」も、今やグローバル市場世界の構造の中に組み込まれている。こうした時代にあって、「自然」と「人間」という二大要素からなる有機的な運動体であり、かつ歴史的存在でもあるこの基礎的「地域」を、ひとつのまとまりある総体として深く認識するためには、(1)「地域」共時態(シンクロニック)、(2) 歴史通時態(ダイアクロニック)、(3)「世界」(グローバルな)場という、異なる3つの次元の相を有機的に連関させながら、具体的かつ総合的に考察することがもとめられる。
こうすることによってはじめて、社会の構造全体を、そして世界をも、全一体的(ホリスティック)にその本質において深く具体的に捉えることが可能になってくる。やがてそれは、社会経済の普遍的にして強靱な理論に、さらには21世紀世界を見究める哲学にまで昇華されていく。
地域未来学とも言うべきこの革新的地域研究としての「地域生態学」は、こうして、21世紀の未来社会をも展望しうる方法論の確立にむかうものでなければならない。
こうした主旨からすれば、本来、21世紀の革新的地域研究としての「地域生態学」は、諸学の寄せ集めの単なる混合物であるはずもない。だとすれば、それはまさに時代が要請する壮大な理念のもとに、自然、社会、人文科学のあらゆる学問領域の成果の上に、事物や人間や世界の根源的原理を究める諸科学の科学、つまり、21世紀の新たな哲学の確立と、それに基づく歴史観を導きの糸に、相対的に自律的な独自の学問的体系を築く努力がもとめられてくる。
こうして確立される革新的地域研究としての「地域生態学」、つまり地域未来学とも言うべきものは、21世紀未来社会を見通し得る透徹した歴史観を新たな指針に、混迷する今日の現実世界に立ち向かっていくことになろう。
グローバル市場経済が世界を席捲し、「家族」を、そして「地域」を攪乱し、破局へと追い込んでいる今こそ、それへの対抗軸として、何よりもまず、私たちの生命活動を直接的かつ基礎的に保障している「家族」と「地域」を市場原理に抗する免疫力に優れた自律的な「家族」と「地域」に甦らせ、人間にとって本来あるべき民衆的生活圏の再構築を急がなければならない。
そのために今、何をなすべきかが問われている。近代を超克する新たなパラダイムのもと、包括的で新しい地域未来学の確立と、「地域実践」の取り組みがもとめられている所以である。
それは、第4章でも概観した「近代経済学」を乗り越えた、時代のこの大きな転換期にふさわしい新たな「経済学」をも包摂した革新的地域研究、つまりそれはより厳密かつ分かりやすく簡潔に定義するならば、生活者としての民衆的生活世界に着目し、あくまでもそれを基軸に据えた、21世紀における近代超克の新たな時代要請に応えうる「地域生態学」とも言うべき新しい研究分野の開拓であり、確立でもある。
この革新的「地域生態学」によってはじめて、21世紀を見通し、あるべき社会の未来の姿を提示し、しかもそのあるべき未来の姿にアプローチする、より具体的な道筋をも明確に示すことが可能になってくるのではないだろうか。
この探究の道のりは、たやすいものではないが、自然、社会、人文科学の諸分野の垣根を越えた真摯な対話によって、道は次第に拓かれていくにちがいない。
この長編連載「いのち輝く共生の大地 ―私たちがめざす未来社会―」は、まさにこの革新的「地域生態学」の理念と方法を貫き、それをベースに現実世界を分析し、未来への透視を試みた試論となっている。
これまでの20余年にわたる「菜園家族」社会構想の研究をあらためて総括し、こうした新たな理念と研究方法の自覚のもとに、2011年3・11東日本大震災・福島原発事故、気候変動と新型コロナウイルス・パンデミック、そしてウクライナ戦争、ガザにおけるジェノサイドに象徴される深刻な事態によって露わになった、資本主義の末期重症のこの時代に応えるべく、“生命系の未来社会論”とも言うべき新たな次元への昇華を試みようとするものである。まさにこれは、19世紀未来社会論のアウフヘーベン(止揚)ともいうべきものなのである。
19世紀以来、今も依然として未来社会論に決定的に欠けているものは、まさにこの「地域生態学」的方法論ではないのか。そのために、変革主体を何に求めるかが曖昧となり、さらにはその主体形成のメカニズムを現実世界に即して、より具体的に明らかにすることからも疎遠となり、結局、未来社会への展望に確信を持てず、希望を失っていく。今日、社会全体が混迷と閉塞状況に陥っていくのも、根底にはこのことがあるからではないだろうか。
まさにこの探究のプロセスに社会の根深い矛盾と対立、課題解決の葛藤と光が
既に述べてきたように、行き詰まった今日においては、近代経済学あるいは偏狭な経済学至上主義的分析では、社会そのものの核心を、そして人間の本質を解明するには限界があり、ましてや21世紀未来社会を明確に展望することは、ほとんど不可能であると言ってもいい。
ここで提起してきた革新的地域研究としての「地域生態学」の理念とその方法によってはじめて、今日の社会は全一体的(ホリスティック)に捉えられ、見極められるのではないか。こうした方法が今、切に求められているのである。
次の第三部第6章以降、エピローグにかけて、この革新的地域研究としての「地域生態学」的理念とその方法を梃子に、今日の社会の実態を深く掘り下げ、“生命系の未来社会論”の道である「菜園家族」社会構想の内実を具体的に叙述、展開していきたいと思う。
まさにこれからはじまるこの探究のプロセスに、今日の社会の根深い矛盾と対立、そして課題解決の葛藤と光を見ることになるであろう。
◆「いのち輝く共生の大地」第5章の引用・参考文献◆
金谷治『老子 ―無知無欲のすすめ―』講談社学術文庫、1997年
安藤昌益「稿本 自然真営道」『安藤昌益全集』(第一巻~第七巻)、農山漁村文化協会、1982~1983年
ロバート・オウエン『ラナーク州への報告』未来社、1970年
マルクス、訳・解説 手島正毅『資本主義的生産に先行する諸形態』国民文庫、1970年
マルクス『資本論』(一)~(九)岩波文庫、1970年
ウィリアム・モリス、訳・解説 松村達雄『ユートピアだより』岩波文庫、1968年
A・チャヤーノフ『農民ユートピア国旅行記』晶文社、1984年
エンゲルス『自然弁証法』(1)(2)国民文庫、1965年
スチュアート・カウフマン 著、米沢登美子 監訳『自己組織化と進化の論理 ―宇宙を貫く複雑系の法則―』日本経済新聞社、1999年
原典は、Kauffman,Stuart “AT HOME IN THE UNIVERSE:The Search for Laws of Self-Organization and Complexity”,Oxford University Press,Inc.,1995
アドルフ・ポルトマン『人間はどこまで動物か』岩波新書、1961年
中村桂子『生命誌の世界』日本放送出版協会、2000年
スティーヴン・W・ホーキング『ホーキングの最新宇宙論』日本放送出版協会、1990年
カール・ポラニー 著、吉沢英成・野口建彦・長尾史郎・杉村芳美 訳『大転換 ―市場社会の形成と崩壊―』東洋経済新報社、1975年
玉野井芳郎『生命系のエコノミー ―経済学・物理学・哲学への問いかけ―』新評論、1982年
ポール・エキンズ 編著、石見尚ほか 訳『生命系の経済学』御茶の水書房、1987年
ジェイムズ・ロバートソン 著、石見尚・森田邦彦 訳『21世紀の経済システム展望 ―市民所得・地域貨幣・資源・金融システムの総合構想―』日本経済評論社、1999年
藤岡惇「帰りなん、いざ豊饒の大地と海に ―『平和なエコエコノミー』の創造・再論―」『立命館経済学』第65巻 特別号13、立命館大学経済学会、2016年
友寄英隆『「人新世」と唯物史観』本の泉社、2022年
聽濤弘『<論争>地球限界時代とマルクスの「生産力」概念』かもがわ出版、2022年
藤岡惇 書評『人新世の「資本論」』(斎藤幸平 著、集英社新書、2020年)『季刊 経済理論』第59巻第1号、経済理論学会 編集・発行、桜井書店、2022年
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2024年10月25日
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