長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第3章
長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―
第一部 生命系の未来社会論、その生成と到達
―自然界と人間社会を貫く生成・進化の普遍的原理を基軸に―
第3章
資本の自己増殖運動と飽くなき人間欲望の結末こそ、野獣世界への退化
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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第3章
(PDF:431KB、A4用紙7枚分)
1.人間に特有な「道具」の発達が人類史を大きく塗り替えた
受精卵の子宮壁への着床から成人に至る人間の個体発生の過程は、人類が出現して以来、これまでも繰り返されてきたし、これからも永遠に繰り返されていくであろう。
だとすれば、「常態化された早産」によってあらわれる脳の未成熟な「たよりない能なし」の新生児も、これから先も永遠に繰り返されて、母胎の外にあらわれてくることになるであろう。
子宮内の変化の少ない温和な環境から、突然外界にあらわれた新生児の新たな環境は、母の胎内とはまったくちがったものである。それは、「家族」という原初的ないわば社会的環境と、それをとりまく大地という自然的環境、この2つの要素から成り立っている。
人類が出現した時点から数えても、今日まで少なくとも二百数十万年もの間、人間の赤ちゃんは、子宮内の温和な環境から、突然、この2つから成る環境、すなわち原初的な社会環境である「家族」と、大地という自然的環境に産み落とされ続けてきたことになる。
昔と変わらず今日においても、胎外に生まれ出たこの未完の素質を最初に受け入れ、「養護」する場は、ほかでもなく「家族」であり、それをとりまく大地である自然なのである。そして、どのようにでも変えうる可能性を秘めたその未熟な脳髄は、繰り返しこの「社会」と「自然」という2つの環境から豊かな刺激を受けつつ変革され、人間特有の発達を遂げながら、他の動物とは際立った特徴をもつ人間につくりあげられてきた。
人間形成のこの2つの環境は、少なくとも二百数十万年という長い人類史の大部分の間、主として自然界の内的法則にのみ従って、基本的には大きな変容を蒙ることもなく、緩慢な流れの中にあって、時代は過ぎていった。
ただし、原初的な社会的環境である「家族」の方が、まず先行して、ゆっくりではあるが徐々に変化の兆しを見せはじめる。
すべての動物がそうであるように、人間も、自然との間の物質代謝過程の中ではじめて、生命を維持していくことができるのであるが、人間の場合、この物質代謝過程を成立させているのが労働である。
この人間労働は、自然を変革すると同時に、人間自身をも変革し、人間特有の脳髄の発達を促し、それが機縁に「早産」が常態化して、人間に特有な「家族」が編み出されてきた。
すでに見てきたように、この「家族」を基盤に人間発達のその他の3つの事象、「言語」、「直立二足歩行」、「道具」が相互に密接に作用し合い連動しつつ、人間は、他の動物にはない特異な発達を遂げてきたのである。
こうした人間特有の3つの発達事象の中でも、とりわけ「道具」の発達は、人類史を大きく塗りかえていく。ささやかな原始的石器から、高度に発達した現代の巨大技術体系に至るまで道具の発達を辿ると、生産力の爆発的ともいえる驚くべき凄まじい変化をまざまざと見せつけられる。
その間、人類始原の自然状態から、古代奴隷制、中世封建制を経て、近代資本主義に至るまで、生産手段(土地と生産用具)の所有のあり方に注目するならば、直接生産者と生産手段との原初的結合状態から次第に分離へとむかい、ついには資本主義の成立によってはじめて、両者は完全分離の状態に達する。
一方の極には、社会的規模での莫大な生産手段が集積し、それを私的に所有する資本主義的権力層が形成され、他方の極には、生産手段から排除され、自らの労働を商品として売る以外に生きる術(すべ)のない圧倒的多数の大群が、近代賃金労働者としてあらわれてくる。
ここで注意しなければならないことは、この生産手段と直接生産者である人間との完全分離は、少なくとも二百数十万年ともいわれる人類の長い歴史から見れば、たかだか近代資本主義の成立以後の、ごく短い二、三百年の間におこった現象にすぎないということである。
つまり、人間は、二百数十万年ともいわれる長い人類史のほとんど大部分の間を、自己のもとに生産手段を結合させた状態で、何らかの形の「家族」を基盤に、これをすぐれた労働の組織として機能させながら、自然と人間との間の物質代謝過程を維持してきた。
その意味でも人間にとって「家族」は、自然に開かれた回路であり、自然と人間とをつなぐ接点であり続けてきたと言えよう。
2.「家族」はこれからも人間が人間であるために基底的な役割を果たし続ける
こう見てくると、「家族」は、人類の歴史のほとんど全期間を通して、先にも触れたように、他の動物とはちがう、ヒトが人間として発達する重大な契機となった「言語」と「直立二足歩行」と「道具」を生み出し、かつ、それらの発達を促す母胎ともいうべき基底的で大切な役割を果たし続けてきたことが分かる。
「家族」が直接、生産手段との結合を保っている間は、基本的には「家族」本来の機能は失われずに維持されてきた。
生産手段と「家族」の分離が決定的になったのは、世界史的に見れば18世紀のイギリス産業革命にはじまる近代資本主義の成立期からのことであり、わが国であれば、驚くことなかれ、戦後の1955年からおよそ20年間の高度経済成長期のことであった。二百数十万年の長きにわたる人類の歴史からすれば、「家族」のこの激変は、まさにこの間の一瞬のうちの出来事であったといわなければならない。
「未熟な新生児」を受け入れ、ヒトを人間たらしめ、さらには人間の発達を支え、それを長期にわたって保障してきた「家族」は、生産手段からの完全な乖離によって、「家族」に固有の機能を急速に衰退させ、変質を遂げていった。
そして、今日世界を風靡している新自由主義的市場原理至上主義「拡大経済」は、さらに「家族」の変質を執拗に迫りながら、人間の発達を保障するもうひとつの場、すなわち自然をも短期間のうちに急激に悪化させ、人間のライフスタイルの人工化を根底からとどまることを知らぬ勢いでおしすすめていったのである。
こうした「家族」の急激な変化と自然の荒廃の後にあらわれた「未熟な新生児」は、たまったものではない。「家族」と自然というこの2つの大切な受け皿を失い、人間や自然との豊かな触れあいを閉ざされたまま、一気に「世界最先端のIT社会」という大地から隔絶された虚構の世界に投げ出されるのである。この「家族」と自然の急激な変化によって、「未熟な新生児」は人間になることを阻害され、人間の「奇形化」の進行をも余儀なくされていく。
本連載の第2章で触れた、ドイツの動物学者ヘッケルによる「個体発生は、系統発生を繰り返す」というテーゼのもつ意味を重く受けとめるならば、人間が人間であり続けるためには、自然に根ざした「家族」が、これからも基底的な役割を果たし続けなければならないはずである。自然に根ざした「家族」がなくなった時、おそらく人間は人間ではなくなるにちがいない。
このことは、今日、市場原理至上主義「拡大経済」が荒れ狂う中で、自然との回路を断たれた「家族」が、「家族」に固有のきめ細やかな本来の機能を失い、空洞化し、崩壊の危機に晒されているまさにその時に、子どもの世界にこれまで想像もできなかった異変が次々に発生し、深刻な社会問題を引き起こしていることから見ても、十分に頷けるであろう。
幼い“いのち”のあまりにも大がかりな犠牲による、あってはならないこのような「社会的実験」によってでしか、「家族」のもつ根源的な役割とその意義が立証されないとするならば、それは、あまりにも残酷で恐るべき仕打ちであるというほかない。
それにしても今や私たちは、自然が、そして「家族」がこれまで人間にとって根源的であったし、これからも人間が人間であるためには、未来永劫にわたって「家族」と自然が根源的であり続けなければならないということを、理論的にも、また今日の世界の現実からも、ようやく明らかにすることができるようになってきたのである。
それは、「家族」が、そして「地域」が疲弊し、衰退と崩壊の一途を辿る中で、人間がズタズタに分断され、「無縁社会」の闇に呑み込まれていく今日の凄まじい現実、つまり日本社会が根っこから崩れていく姿を目の前にして、多くの人々がこのことに気づきはじめたからではないだろうか。
今日の少子化対策問題の議論も、こうした文脈の中に位置づけて、根源的、長期的視点に立って捉え、本気で考え直すことが必要ではないだろうか。
にもかかわらず権力的為政者たちは、ウクライナ戦争や台湾有事などを口実に、莫大な予算額を実に周到具体的に提示し、そそくさと軍拡大増税を国民に押しつけてくる。一方、国民最大の懸案である少子化対策については、政権浮揚を狙って、“異次元の少子化対策”などと称して、財源の裏付けもないまま、お座なりの空虚な提案をどさくさ紛れに連呼する。そんな政略的魂胆など、土台おかしいのである。
3.特異な発達を遂げたヒトの脳髄 ―“諸刃の剣”とも言うべきその宿命―
「道具」の発達と生産力の爆発的な発展 ―ヒトの脳髄、大自然界からの皮肉な贈り物
既に見てきたように、「常態化された早産」によってこの世に現れた、脳髄の未成熟な「頼りない能なし」であるヒトの新生児は、長期にわたる「家族」の緊密な庇護のもとに成長する。どのようにも変えうる可能性を秘めたこの未成熟で柔らかな脳髄は、「家族」といういわば原初的社会の刺激を繰り返し受けつつ、他の哺乳類には見られない、人間に特有な異常な発達を遂げていく。
この「家族」を基盤に、人間発達のその他の3つの事象、すなわち「言語」、「直立二足歩行」、「道具」が相互に緊密に作用し合い、連動しつつ、人間の脳髄のさらなる発達を促していく。
先にも述べたように、人間の脳髄の発達をさらに促進するのが、労働である。
つまり、他の動物と同様に、人間の生命の維持も、自然との間の物質代謝過程の中ではじめて可能になるのであるが、特に人間の場合、この物質代謝過程を成立させているのが労働である。人間労働は、自然を変えると同時に、人間自身をも変革し、人間に特有の脳髄の発達を加速的に促していく。
そして、こうした労働の過程で、「道具」は飛躍的な発達を遂げていく。「道具」の発達は、ささやかな原始的石器から、高度に発達した現代の巨大技術体系に至るまで、生産力の爆発的な発展をもたらし、人類史を大きく塗りかえてきた。
その間、人類始原の自然状態から古代奴隷制、中世封建制を経て、近代資本主義に至るまで、生産手段(土地と生産用具)の所有のあり方に注目するならば、直接生産者と生産手段との原初的結合状態から次第に分離へと向かい、ついには資本主義の成立によってはじめて、両者は完全分離の状態に達する。
一方の極には、社会的規模での莫大な生産手段が集積し、それを私的に所有する資本主義的権力層が形成され、もう一方の極には、生産手段から排除され、自らの労働力を商品として売る以外に生きる術のない、圧倒的多数の大群が近代賃金労働者として現れてくる。
とりわけ注目すべきことは、この生産手段と直接生産者である人間との完全分離は、少なくとも二百数十万年とも言われる人類の歴史から見れば、たかだか近代資本主義の成立以後のごく短い二、三百年の間に起こった現象に過ぎないという点である。
つまり人間は、長きにわたる人類史のほとんど大部分の間を、自己のもとに生産手段を結合させた状態で、何らかの形の「家族」を基盤に、これを優れた労働の組織として機能させながら、自然と人間との物質代謝過程を維持してきたのである。
しかし、大地から引き離された近代賃金労働者という大群は、本来、労働そのものに内在する豊かな創意性と労働の喜びを剥奪された、人類史上かつて見られなかった脆弱な社会的生存形態に貶められたのである。
このことが「道具」の発達と生産力の爆発的発展によって引き起こされたとすれば、脳髄の特異な発達は、人類にとって何とも皮肉な“諸刃の剣”であると言わざるを得ない。
こう歴史的に見てくると、「常態化したヒトの早産」に起因する、他の動物には見られない人間の脳髄の特異な発達には、手放しでは喜ぶことができない、宿命的とも言うべき深刻な矛盾を孕んでいることに気づくはずだ。
ヒト特有の原初的「共感能力」(慈しむ心)が人類の未来に果たす可能性
さて、ここでもう一つ違った視点から、人類の特性に迫ってみよう。
それは、「常態化した早産」によって発達した人間に特有な「家族」、そこから派生した発達事象としての「言語」的、「直立二足歩行」的、「道具」的ぞれぞれの知能とは異なる、もう一つの見落としてはならない大切な発達事象として、人類始原のヒトに特有の感性である原初的「共感能力」、つまり、他者の痛み、他者の喜怒哀楽を自らのものとして受け止め、共振・共鳴する能力が芽生えていたことである。
この人類始原以来の原初的「共感能力」(慈しむ心)を人間の発達事象全体の中に位置づけて、それを基底に、人間の繊細で豊かな感情の発達、歌や音楽、踊り、絵画、彫刻など美的感性、さらには知性的、倫理的感性へと展開してきた人間の精神発達の歴史を再確認しておく必要があろう。
人々が分断され、憎しみあい、相争い、またもや世界大戦の危機すら迫る21世紀の今日にあって、他の動物には見られない人類始原以来の貴重なこの原初的「共感能力」(慈しむ心)を充実、発揚、発展させ、その可能性を探り、今日の現実世界を超克する具体的プロセスを模索することは、人類の未来にとって、きわめて大切になってきているのではないか。
それはまさに19世紀未来社会論を止揚し、21世紀にふさわしい新たな未来社会論をどう構築するかという課題とも重なってくる。
サルは、群れの中の他のサルが怪我を負っても、見向きもせず無関心であるのに対して、特に人類に近い二足歩行のオランウータン、チンパンジー、ゴリラなどの霊長類には、傷ついた他者を気遣う原初的「共感能力」が認められるという。
ヒトは、先にも触れた「常態化した早産」によって、未熟な、どのようにも変えうる柔らかな脳髄の赤ちゃんを長期にわたって受け入れ、擁護する必要性から生まれた、他の哺乳動物には見られない、ヒト特有の「家族」という、いわば庇護の包膜の中で、ヒトに特有の発達事象である「言語」、「直立二足歩行」、「道具」との相互作用のもと、この原初的「共感能力」、つまり、他者の痛み、他者の喜怒哀楽を自らのものとして受け止め、共振・共鳴する能力を格別に発達させてきた。
この原初的「共感能力」は、人間に豊かな感情の発達を促し、他者を思い遣る心情、さらには人間の最高の価値としての真・善・美へと発達させ、真善美の調和へと高度に発達させていく。そして、数々の倫理規範をも編み出し、ついに普遍的な愛へと昇華させていった。
ネアンデルタール人や初期のホモ・サピエンスが残した洞窟の絵画、埋葬の痕跡、死者への献花、病や傷を負った仲間への介護の存在などから、この原初的「共感能力」や美的感情の萌芽を推察することができよう。
近代を迎え、人間は、二百数十万年という長い人類史からすれば、たかだか数百年というあっという間の短い時間に、自然科学を、社会科学を、人文科学を、哲学を、文化芸術を実に高度、複雑精緻に発達させた。そして今では、地球の起源も、自然界の成り立ちも、未来の宇宙の姿をも科学的に解明する知力を持つにまで至っている。
それなのになぜこの世では、人間は愚かにも互いにいがみ合い、権力の座にある者たちが勝手気ままに、しかもずる賢く大義名分を掲げ、徒党を組み、世界を分断し、民衆同士が殺し合いを強いられなければならないのか。
21世紀の今もって、世界大戦の危機迫るこの現実をどう解釈すべきなのか。そこからどうすれば、未来へ開く道筋は見えてくるのか。
人類始原のヒトに特有の他者を顧みる原初的「共感能力」(慈しむ心)の発達を歴史的に阻み、阻害してきた根源にある社会的要因は、一体何だったのか。このことを突き詰めて考えることこそが、今、私たちに求められているのではないだろうか。
これは、人類にとって至難の課題ではあるが、今日の私たちに背負わされた、避けては通れない最大にして喫緊の課題なのである。
それにしても、人間は、なぜこんな愚かなことにいとも簡単に騙され、同調し、力み、恥じないのか。
人間は何とも不思議で厄介な動物である。
21世紀の私たちの未来は、その真相にどこまで迫れるかにかかっている。
◆「いのち輝く共生の大地」第3章の引用・参考文献◆
マルクス、訳・解説 手島正毅『資本主義的生産に先行する諸形態』国民文庫、1970年
瀧井宏臣『こどもたちのライフハザード』岩波書店、2004年
松沢哲郎『進化の隣人ヒトとチンパンジー』岩波新書、2002年
奈良貴史『ネアンデルタール人類のなぞ』岩波ジュニア新書、2003年
山極寿一『家族進化論』東京大学出版会、2012年
山極寿一『「サル化」する人間社会』集英社、2014年
藤岡惇「生命史観と唯物史観の統合 ―自然順応型文明の高次復活のために(上)―」『立命館経済学』第69巻第5・6号、立命館大学経済学会、2021年
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2024年10月11日
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