連載「希望の明日へ―個別具体の中のリアルな真実―」の総括にかえて “高次自然社会への道”(その1)
2023年11月からスタートした連載「希望の明日へ ―個別具体の中のリアルな真実―」の終了にあたり、その総括にかえて、今回から“高次自然社会への道”(その1)~(その8)を順次、掲載していきます。
連載「希望の明日へ」の各章で提起された個別具体的な課題を、この遠大な未来への総路線の中にどう位置づけるのか、再度ご検討いただく中で、さらなる高次の理論への展開の可能性が開かれてくるのではないかと期待しています。
この≪総括にかえて≫のシリーズを通して、さらなる探究の深化と、現実世界の「地域」におけるこの理念の具現化の道が、着実に開かれていくことを願っています。
連載「希望の明日へ―個別具体の中のリアルな真実―」の終了にあたり
≪総括にかえて≫
“高次自然社会への道”(その1)
―自然との再融合、原初的「共感能力」(慈しむ心)再建の可能性―
◆ こちらからダウンロードできます。
連載「希望の明日へ―個別具体の中のリアルな真実―」の
≪総括にかえて≫ “高次自然社会への道”(その1)
(PDF:689KB、A4用紙15枚分)
民衆の生活世界を築く ―腐り切ったわが国の「政治」を超えて
21世紀における
資本主義超克の
人間復活のレボリューション。
(a)
根なし草同然の賃金労働者と
生産手段との「再結合」による
抗市場免疫の「菜園家族」を基軸に展開する
民衆の生活世界の構築
菜園家族レボリューション。
(b)
広大無窮の自然界を母胎に
生成・進化を遂げてきた人間社会。
自然界と人間社会両者を貫く生成・進化の
元来あるべき「適応・調整」(「自己組織化」)の普遍的原理からの
決定的逸脱の行き着く先。
それは、人間社会が大自然界のただ中にありながら
あたかも悪性の癌細胞の如く
増殖と転移を限りなく繰り返し
人間どもの飽くなき欲望の赴くままに
生命の惑星、地球を丸ごと
容赦なく蝕み尽くしていく
宿命的とも言うべき結末なのだ。
(c)
自然界と人間社会の生成・進化を律する
原理レベルでの乖離を抑制し
両者合一の普遍的原理に
限りなく収斂すること。
この壮大な人類的課題に立ち向かう
「菜園家族」を基調とするCFP複合社会の
長きにわたる展開過程。
まさにこれこそが
民衆の主体形成の確かな基盤創出にとって
不可欠のプロセスであり
社会構造のさまざまなレベルにおける
多重重層的アソシエーション創出の
生き生きとしたプロセスでもあるのだ。
(d)
このプロセスのわが国における具現化である
民衆主体の自律的“菜園家族レボリューション”こそが
貧困と格差と戦争のない
大地に根ざした
素朴で精神性豊かな
民衆の生活世界を築く。
時代の大転換期にあって
未来に対する傲慢と不安が錯綜する
混迷の今日においては尚のこと
宿命を背負った人間社会への
この新たな問いかけが
抽象レベルでの概念操作を延々と繰り返し
訓詁学的手法の隘路に陥りがちな現状を
自ずから克服し
現実世界に広がる豊かな具体的事実からの
帰納を重視する
実証的研究の復権を促す。
(e)
それはやがて
18世紀イギリス産業革命の渦中から現れた
19世紀未来社会論を止揚し
新たな時代の要請に応えうる
高次の21世紀未来社会論の構築を
可能にするのではないか。
わが国の今日の腐り切った「政治」の現実
巨大国家間の覇権対立による
ウクライナ戦争が如実に示す
危機迫る世界戦争の本質も
こうした新たな世界認識の構築と鍛錬によって
より深く捉えることが可能になるのではないか。
そして、何よりも今日の混沌の中から
めざすべき21世紀の未来像が
より鮮明に浮かび上がってくるであろう。
1 21世紀こそ草の根の変革主体の構築を
―まことの民主主義の復権と地域再生―
「お任せ民主主義」を社会の根っこから問い直す
それでもやはり、「菜園家族」社会構想、つまり自然循環型共生社会をめざすこの21世紀の社会構想は、理想であり願望であって、今さら実現など到底不可能であるといった諦念にも似た漠然とした思いが、人々の心のどこかに根強くあるようだ。
よく考えてみると、それも無理もないことなのかもしれない。そもそも、戦後の焼け跡の中から営々と築きあげてきた今日の「快適で豊かな生活」に長い間どっぷり浸り、すっかり馴らされてきた大方の国民にとって、それ以外の生き方などとても考えられないからなのであろう。
新型コロナウイルス・パンデミックがやがて収束し、為政者が約束する「成長戦略」なるものによっていずれ景気が回復すれば、かつての「繁栄」も夢ではないのではないか、あるいは少なくともこれまで享受してきたライフスタイルは何とか維持できるのではないか、といった他人まかせ、「政治屋」まかせの後ろ向きで受け身の淡い期待感が、いつも心のどこかにあるようだ。
そして何よりも恐れなければならないことは、この新自由主義的「拡大経済」下の私たち自身が、資本の自己増殖運動の虜となり、ついにはその狂信者にまで身を落とし、人間欲望の際限のない肥大化の果てに、隣国への恐怖と敵対心を煽られ、人間が人間を徹底して殺める、惨いとしか言いようのない戦争という名の倫理喪失の深い闇の中へと沈んでいくことなのではないか。
だが、こうした人々の保身の姿勢に深く根ざした心情や思考を背景に形成されてきた「お任せ民主主義」も、地球生態系に不可逆的な損傷を与える無限の経済成長そのものも、今や限界に来ている。
今から十余年前、2011年3・11東日本大震災の惨禍を体験した国民は、為政者の喧伝する「成長戦略」に惑わされ時間だけが虚しく過ぎていくうちに、いつかこの国は奈落の底に落ちていくのではないか、という危惧を感じはじめていた。
しかしこれとて漠然とした不安にすぎないもので、そこから一歩踏み出し、自らの頭で考え、行動し、これまでとは違った自らの生き方を、さらにはこの国の社会のあり方を真剣に探ろうという積極的で前向きな姿勢には、なかなかなれなかったようだ。このことは、上から与えられた「アベノミクス」なるものに、つい最近まで幻想を抱き、庶民感覚からまったくかけ離れた皇室行事に浮かれ、懲りもせず浮き足立っていた世論の動向を見るだけでも頷けるはずだ。
こうした中で、今日のわが国社会の行き詰まったどうしようもないこの古い体制を何とか修復し、維持しようとする財界、官僚、政界中枢の鉄のトライアングルにつながる、まさに国民の「1パーセント」にも満たない権力支配層は、戦後これまでに蓄積してきた莫大な財力を背景に、彼ら自身の「シンクタンク」を上から組織し、マスメディアをはじめ既成のあらゆる体制を総動員して、そこから繰り出す洪水のように氾濫する一方的な情報と、欺瞞に充ち満ちた政策と甘言によって国民を統治・支配してきた。
これがこの国社会の深層によどむ、偽らざる実態なのではないか。
こうした戦後長きにわたる権力構造を背景に、民衆の安易な「お任せ思考」はますます助長され、しかも多くの死票を出し、民意と議席数に極端な乖離を生む「小選挙区制」のもとで、議会制民主主義は徹底的に歪められ、民主主義はついに地に堕ちてしまった。
議会は、国民の「99パーセント」の意志をいかにも「合法的に」平然と捻じ伏せ、国民の大多数の利益とは敵対する、僅か「1パーセント」にも満たない権力支配層の意志を代弁する機関にまで失墜してしまったのである。これが、彼らの好んで使う薄っぺらな欺瞞の「民主主義」であり、「法の支配」なのだ。
これは、「民主主義」の名のもとに、しかも「合法的に」、民主主義の恐るべき歪んだ構造を私たち自らの社会の中に深く抱え込んでしまっただけではなく、本来、民衆が政治の主権者であるにもかかわらず、ひと握りの為政者を主人であるかのように錯覚するまでに、人々の精神をも根底から顚倒させてしまったのだ。
身近な語らいの場から、未来への瑞々しい構想力が漲る
長い苦難の道のりになるけれども、私たちは今日のこの倒錯した偽りの「民主主義」に対峙して、自らの草の根の政策を具体的に提起し、行動し得る力量を高めていくことからはじめなければならない。
国民の圧倒的多数を占める「99パーセント」の中から英知を結集し、切磋琢磨し、自らの新たなる草の根のシンクタンク・ネットワークを構築し、自らの進む道を切り開いていく時に来ている。
私たちは、自らの理想を不可能だと決めつけ諦める前に、人類のあるべき崇高な理想をいかに模索し実現していくのか、自らの置かれたそれぞれの立場から、独自の方法と具体的な道筋をまず自らの頭で考え描き、行動することからはじめなければならない。
こうした長期にわたる忍耐強い日常普段の思索の鍛錬と実践を通してはじめて、自らを覆っている諦念と虚無感は払拭され、新たな創造的思考と行動の世界が開かれていくのではないか。
こうした時代の要請に応えて、人間同士がじかに会い、自由奔放に語り合い、切磋琢磨して互いに創造の力を高め合っていく場として、「21世紀この国と地域の未来を考える 自然(じねん)懇話会」(仮称)なるものを考えてはどうであろうか。
この「自然(じねん)懇話会」(略称)は、地域未来学ともいうべき革新的地域研究に基礎を置き、21世紀の今日の現実にしっかり足を踏まえ、精神性豊かな草の根の未来社会論の構築に向かって、新たな一歩を踏み出すのである。
未来社会のあるべき理念と現実世界との絶えざる対話と葛藤を通して、研究と実践のより高次の段階へと展開する終わりのない認識の自律的自己運動の総体を、ここでは、世界史的にも稀有なる江戸中期の先駆的思想家・安藤昌益に学び、敢えて「自然(じねん)」と呼ぶことにしよう。
この「自然(じねん)」の認識プロセスこそが、この「21世紀この国と地域の未来を考える 自然(じねん)懇話会」(仮称)の真髄であり、従って、その発現たる自由奔放、そして何ものにも囚われない孤高の精神と、他者に対する寛容と共生の思想が、その核心となる。
今日、通信・情報ネットワークは急速な発達を遂げ、人間は自然から隔離され、バーチャルな世界にますます閉じ込められていく。パソコン、携帯電話、スマートフォン、タブレット端末等々の普及・応用は著しく、人々は人工的な空間の中で野性を失い、病的とも言える異常な発達を遂げていく。そして不思議なことに、人々はかえって人間不信に陥り、孤立を深めていく。
こうした時代にあって、豊かな人間性を回復していく上でも、「自然(じねん)懇話会」(略称)の意義は、ますます大きくなっていくのではないか。
莫大な財力を背景に今日まで圧倒的多数の国民を欺き、統治してきた財界・官僚・政界ベースのまさにこの上から目線の「シンクタンク」に対峙して、今こそ身近な地域に「自然(じねん)懇話会」(略称)を生み出し、さらにはそれらを相互に結んで、全国津々浦々に分散、潜在している多彩な英知を結集する、自由で開かれたネットワークをつくり出すことが、何よりもまず必要になってきている。
いわば無数の小さな「私塾」と、それらが主体的・自発的に連携し、自由闊達に考え実践する水平的で自律的なネットワークである。そして、その柔軟で分厚い土台の上に、草の根の民衆の研究組織、21世紀未来構想シンクタンクとも言うべきものの構築が待たれるのである。
これらはさしずめ「『菜園家族』自然(じねん)ネットワーク」、および「21世紀未来構想 自然(じねん)シンクタンク」とでも名付けられるものである。
労働組合運動の驚くべき衰退、そこから見えてくるもの
2014年12月16日、政府と労働界、経済界の代表が集まる「政労使会議」(政府側からは安倍晋三・首相=当時、経営者側からは榊原定征・経団連会長=当時、労働者側からは古賀伸明・連合会長=当時などの面々)なるものは、春闘の賃上げに協調して「最大限努力する」との合意文書をまとめた。
この会議で安倍首相(当時)は、居並ぶ経済界のトップたちに呼びかけた。「最大限の賃上げを要請したい」。この賃上げの合意は、2013年に続き2回目であった。もちろん、中小・零細企業の労働者は蚊帳の外である。
今日の労働運動の抱える最大の問題は、「労組離れ」だ。1995年、経団連が報告書で「非正社員の活用」を提案し、労働規制の緩和が進んだ。専門職に限られていた「派遣労働」が1999年原則自由化され、2004年には製造業にも解禁された。非正社員として働く人は、今や全体の4割近くに達する。
一方、1975年に34パーセントあった労働組合の組織率は、2014年には17パーセントにまで低下。このうち連合に加盟する組合員は、雇用者全体の12パーセントにすぎない(『朝日新聞』2014年12月19日「春闘60年 ―だれのために(上)」を参照)。これが今日のわが国の労働運動の偽らざる現実である。
わが国における主流派労働組合運動は、アベノミクス主導のもと、「政労使会議」なるものによって、賃上げを話し合い、合意し、勧告するという、労働者の長くて苦しい闘いの歴史を欺く猿芝居を公然と国民衆目の面前で演出するまでに至ったのである。これは、労働者にとっても国民としても、実に恥ずべき驚くべき事態である。
その責任を互いに他に転嫁する前に、まずは現代賃金労働者としては、そして国民としても実につらいことではあるが、何よりも厳しい自己との対話・内省を徹底して行うべき時に来ているのではないだろうか。
<日本国憲法>
第二七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
② 賃金、就業時間、休息その他の勤務条件に関する基準は、法律でこれを定める。
③ 児童は、これを酷使してはならない。
第二八条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
本来、賃上げをはじめ労働条件の改善・向上は、労働者の生活権、人権を尊重し守るための大切な基本的要求である。そのために、日本国憲法第二七条および第二八条をはじめ労働法によって、労働者の団結権、団体交渉権、ストライキ等の団体行動権など諸々の権利が、法制的にも認められ確立されてきた。
これらの労働者の権利は、わが国のみならず、世界の労働者の長い苦難の歴史の中で獲得されてきた権利である。これらの権利を空文に終わらせることなく、労働者自身が自らの意志と職場におけるたゆまぬ自覚的実践を通じて、その権利を実質化してきた。
今思いつくだけでも労働者が解決しなければならない課題は山積している。派遣法の抜本的改正、抜け穴のない有期雇用規制、公務員の労働基本権など、わが国の労働者にとって大切ないくつかの政策課題がある。
水面下で政府に要望するだけでは何も実現しない。今のわが国の労働運動には、組合固有の労働者主体の実力行使があまりにも欠けている。日本国憲法をはじめ労働法が保障するストライキはもちろん、労働者の大規模なデモもない。要するに、政策課題を社会運動として展開する思想も気力も見られないのである。
労働者自らのあるべき権利は、労働者の代表を僭称する連合など主流派労働組合の一部の職業的幹部と、政府首脳と経済界トップによる「政労使会議」なるものの実にこざかしい「協議」によって横奪されたことになる。
戦後の労働運動史上、これほどまでに労働者が自らの主体性を喪失し、後退・頽廃へと追い詰められた例は他に見ない。ここにも、労働者の労組幹部への根深い「お任せ民主主義」と同質の思考と心情を読み取ることができる。労働者としては、実に屈辱的な事態と言わざるをえない。
こうした事態を生み出した根源的な原因を突き止めることは、そうたやすいことではない。独り労働組合幹部・首脳にその責任を負わせて済むことでもない。何よりも21世紀の今日の時代を的確に捉え、その上で新たな時代認識のもとに、私たち自身の問題として深刻に受け止めなければならない。そして、そこから何を学び、何をどうするかなのである。
21世紀の労働運動と私たち自身のライフスタイル ―「菜園家族」の新しい風を
ここで提起した「菜園家族」自然(じねん)ネットワークは、いわゆる主流派労働組合の連合(日本労働組合総連合会)などに象徴されるように、労働者の代表を僭称する職業化された一部労組幹部によって長きにわたって牛耳られ、沈滞と後退を余儀なくされてきたわが国の労働運動に、根本からその変革を迫っていくものになるであろう。
既成の労働運動が惰性に流れ、従来型のお座なりの賃上げ要求の狭い枠組みに閉じ込められ、労働運動そのものが衰退へと陥っていく中にあって、この新たな社会構想の実現をめざす運動は、週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリング(但し1≦α≦4)によって、農民と賃金労働者という、いわば前近代と近代の人格的融合による、労農一体的な21世紀の新たな人間の社会的生存形態、すなわち「菜園家族」を創出していくその性格上、必然的にこれまでの労働運動には見られなかった新たな局面を切り拓いていくことになろう。
それは、自ずから近代を社会の根底から超克するまさに民衆の新しい働き方、新しいライフスタイルの創出へと向かわざるを得ないものであり、そこに「正規」「非正規」の分断、男女の分断、世代間対立、そして都市と農村の垣根を乗り越えた、これまでには見られなかった、それこそ時代を画する多彩で個性豊かな広範な国民的運動へと展開していく可能性が秘められている。
現実に、フランス、ドイツ、オランダ、スペインなどの西欧諸国では、働き過ぎからゆとりのあるライフスタイルへの移行をめざして、1人当たりの週労働時間短縮によるワークシェアリングの様々な試みが、実行へと移されている。
『オランダモデル ―制度疲労なき成熟社会―』(長坂寿久、日本経済新聞社、2000年)によれば、特にオランダでは、1980年代初頭に高失業率(1983年に12%)に悩まされた経験から、その克服の道を政労使三者で模索し、パートタイム労働の促進によって仕事を分かちあうワークシェアリングへと合意形成を積み重ねていった。これは、単なる失業対策にとどまらず、1人当たりの労働時間の短縮によって、「仕事と家族の関係を和解させたい」という多くの労働者の願いを実現しようとするものでもあった。
オランダの労働者がパートタイム労働の促進に期待したのは、1つ目に何よりも「健康と安全」、2つ目は「労働と分配の再配分」と「雇用創出」、3つ目は労働時間の多様化によって「支払い労働(雇用)と不支払い労働(家事・子育てなど)の再配分」、つまり「男性と女性の分業」の克服をはかること、4つ目は個人の自由な時間を増やし、自分で時間の支配が可能となれば、「個人の福祉の増加」につながり、「社会参加」の可能性を広げるであろうこと、という4つの観点からであった。
それは、夫婦がともにフルタイム勤務で企業の賃金労働に自己の時間の大部分を費やすのではなく、いわば夫婦2人で「1.5人」前という新しい働き方の確立を望む声でもあった。そして、フルタイム労働とパートタイム労働の「対等の取り扱い(イコール・トリートメント)」を求める長年の努力は、1996年に「労働時間差による差別禁止法」の制定へと結実していった。こうした傾向は、ますます世界の趨勢になっていくことであろう。
「菜園家族」型ワークシェアリングと21世紀労働運動の革新
このようなことを考えると、週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリングも、決して夢物語や空想ではないはずである。しかも、人間の本来あるべき暮らしのあり方を求めて、「菜園」や「匠・商」の自営基盤で補完することによって、これまで国内外で実施あるいは提唱されてきたワークシェアリングの欠陥を根本から是正し、実現可能なものとして提起している。
今日、一般的に言われているワークシェアリングが、不況期の過剰雇用対策としての対症療法の域を出ないものであるのと比べれば、この「菜園家族」型ワークシェアリングは、未来のあるべき社会、すなわち、ゆとりあるおおらかな自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)へと連動する鍵となるメカニズムを内包している点で、世界的に見てもはるかに先進的な優れたシステムであると言えよう。
2008年リーマン・ショックに端を発した「百年に一度」とも言われる世界同時不況、2011年3・11東日本大震災と福島原発苛酷事故、そして気候危機、2020年新型コロナウイルス・パンデミック、さらには2022年ウクライナ戦争という相次ぐ深刻な事態のもとで、これまでの社会のあり方そのものが根本から問われている今、私たちは、いつまでも従来型の「経済成長」の迷信に頑(かたく)なにしがみついているのではなく、大胆に第一歩を踏み出す時に来ているのではないだろうか。
21世紀の今、国民の要求は多様化しているだけではなく、就業人口の90パーセントにおよぶ根なし草同然の現代賃金労働者は、生活の不安定さと苛酷さゆえに、巨大都市化し極端なまでに人工化した生活環境の中で、大地から乖離し、あるべき野性を失い、肉体も精神もズタズタにされ、衰弱していく。
特に福島原発事故と新型コロナウイルス・パンデミックを機に、人々は自然回帰への志向をますます強め、大地に根ざした自然融合の新しいライフスタイルと、それを支える新しい働き方をもとめている。今まさにこうした多様で広範な人々の切実な要求に応え得る、21世紀の今日にふさわしい新しい労働運動のあり方がもとめられている。
先に提起した「菜園家族」自然(じねん)ネットワークは、こうした広範な国民の切実な要求を汲み上げ、国民から真に信頼されるに足る、21世紀の新たな労働運動を社会の基底部から支える重要な役割を果たしていくことになろう。
それは、あたかも畑の作物を育てる土壌のように、さまざまな人間的活動や社会的運動に必要不可欠な地域づくりと職場づくりのエネルギーを涵養し、それを蓄え、さらに拠出する源泉とも言うべき役割を果たしていく。「菜園家族」自然(じねん)ネットワークは、このような存在であってほしい。それは、主観的願望ではなく、客観的に見てもそうならざるを得ないであろう。
それはなぜか。熾烈なグローバル市場競争によって、格差と不平等が世界を分断し、気候危機、新型コロナウイルスの脅威が人々を物質的にも精神的にも分断・孤立させ、窒息へと追い遣っている今、多くの人々がそれに代わる新たな社会の枠組みを切望している。
こうした時代にあって、まさにこの「菜園家族」自然(じねん)ネットワークが、新自由主義的市場原理至上主義「拡大経済」に対峙し、抗市場免疫の自律的な自然循環型共生の新たな地平をめざす時、それは農山漁村や地方中小都市、巨大都市部を含めた国土全域において、賃金労働者、農林漁業や匠・商を基盤とする家族小経営、中小企業、そしてあらゆる自由な個人やグループおよび団体(NPO・NGOなどの法人や各種協同組合、農林漁業・商工業団体、ユニオンなどさまざまな形態の労働組合、教育・文化・芸術・芸能・スポーツなどのグループや団体等々)をも包摂する、広範な国民運動を支える大切な母体となる可能性を秘めているからにほかならない。
この「菜園家族」自然(じねん)ネットワークは、老若男女、職業の如何を問わず、宗派や党派の垣根を越えて、相互に情報を交換し合い、学習し、切磋琢磨する、上下の関係を排したそれこそ対等で水平的な、活力あるまことのネットワークとして、今日の市場原理至上主義の苛酷な弱肉強食の「拡大経済」システムに対峙し、「菜園家族」を基調に、人間の自由と尊厳を尊重する精神性豊かな自然循環型共生の21世紀の未来社会をめざしていくことになろう。
多彩で自由な人間活動の「土づくり」―国民運動を底辺から支える力
土壌学で言う団粒構造の土とは、隙間が多く通気性・保水性に富んだ作物栽培にもっとも適した、滋味豊かでふかふかとした肥沃な土壌である。そこでは、微生物からミミズに至る生きとし生けるものすべてが相互に有機的に作用しあい、自立したそれぞれの個体が自己の個性にふさわしい自由な生き方をすることによって、結果的には他者をも同時に助け、自己をも生かしている世界なのである。
「菜園家族」社会構想に基づく人間社会の構造は、究極において、「菜園家族」を基礎単粒に、肥沃でふかふかとした土そっくりな多重・重層的な団粒構造に熟成されていく。
「菜園家族」社会のこの多重・重層的な団粒構造の肥沃な土からは、自由で個性豊かな実に多種多様な「作物」が育っていく。
ここで育つものは、まず個性豊かで自由な個人であり、抗市場免疫の自律的な家族、すなわち「労」・「農」一体融合の「菜園家族」であり、抗市場免疫の自律的な地域社会であり、それを土台に生み出される思想・文化・芸術、そして大衆的娯楽としての芸能であり、スポーツである。
さらには、それらを基礎に展開していく多種多様な文化・芸術運動であり、自由な社会運動であり、さまざまな党派の自由闊達な政治活動であり、さまざまな宗派の宗教活動である。つまりそれは、実に生き生きとした創造性豊かで自由奔放な人間活動の総体なのである。
長い年月をかけ手塩にかけてつくりあげてきた団粒構造の土に合わない「作物」は、自ずから育たないし、やがて枯れてしまう。結局は、人々がどのような社会的土壌をつくりあげるかによって、そこに育つすべての「作物」の命運は決定づけられる。滋味豊かなふかふかとした土からは、必然的に個性豊かな素晴らしい「作物」が育っていくのである。
このことに全幅の信頼を寄せ、「菜園家族」自然(じねん)ネットワークの活動は、すべての「作物」の生育にとって根源的である、まさに根気のいるこの壮大な「土づくり」に徹することに尽きる。そのほかの何ものでもない。
地域住民や市民の活動の役割とその目標を極端に矮小化し、特定の政党・宗派活動や特定の政党・宗派づくりに狭めてはならないのは当然である。地域づくりは、もっともっと根源的で自由で、おおらかな人間的営為そのものなのである。ここにも「自然(じねん)の思想」が貫徹している。
わが国の労働組合運動の驚くべき衰退にせよ、地方自治能力の減退にせよ、特に国政レベルにおける「お任せ民主主義」の目に余る危機的状況にせよ、それらすべての根底にある原因は、こうした団粒構造の滋味豊かな社会的「土づくり」を忘れ、近代の落とし子とも言うべき賃金労働者という根なし草同然の人間の社会的生存形態を基礎とする社会のもとで、人間が大地から引き離され、市場に蝕まれ、人々の心の深層に長きにわたって澱(おり)のように溜(た)まった、諦念にも似たどうしようもない消極性にあるのではないだろうか。
とりわけ先進資本主義経済大国においては、極端な経済成長万能主義のもと、人間の欲望は際限なく肥大化し、人々は人生の生き甲斐をカネやモノに矮小化した守銭奴まがいの狭隘な価値観にすっかり染められていく。以前にも増して、安易で事なかれ主義の脆弱な精神がますます助長され、「お任せ民主主義」の根深い思想的土壌が用意されていく。こうして人々の身も人々の主体性も諸共に、いつの間にか見るも無惨に侵蝕されていくのである。今や戦後民主主義は、主体性喪失のこの事態を放置したままではどうにもならないところにまで後退し、形骸化を余儀なくされている。
戦後78年を経た今、私たちはまず何よりも、私たち自身の新たな主体性の構築のために、社会のあり方をその深層から問い直し、全力を傾注して再出発に臨まなければならない。法文上の形式的な借り物まがいの民主主義ではなく、如何なる反動の猛威の中にあっても挫(くじ)けることのない、まことの主体性を自らの内面から確立していかなければならない。私たちの未来は、その成否にかかっている。
まず何よりも出発にあるべきものは、繰り返しになるが、自らの地域は、そして自らの職場は、自らの頭で考え、自らの手で構築していくということである。それは、人類史上長きにわたって大地に根ざし大地に生きる人間が、精神労働と肉体労働が未分離で、統合され調和していた素朴な生活の中から獲得してきた不動の本源的な原則であり、信念でもあり、今日においても決して忘れてはならない大切な原則なのである。
近代はいとも簡単にしかも短期間のうちに、この原則と信念をすっかり忘却の彼方へと追い遣ってしまった。上から授かった借り物まがいの、民衆の主体性を愚弄した「上から目線」のアベノミクス、それを引き継いだ菅義偉政権の「地方創生」、さらには、装い新たに「新しい資本主義」の看板を掲げ登場した岸田文雄政権が喧伝する「デジタル田園都市国家構想」などであっていいはずがない。
たとえどんなに時間がかかろうとも、「菜園家族」の自律的な自然(じねん)ネットワークは、この人間生活の本源的とも言うべき原則・信念を取り戻し、今日の私たちに突きつけられた21世紀のこの重い課題を成し遂げていくための確かな第一歩を踏み出していくことになろう。
「お任せ民主主義」を排し、何よりも自らの主体性の確立を
―そこにこそ生きる喜びがある
今わが国の経済は、先にも触れたように、成長、収益性の面で長期にわたり危機的状況が続いている。この長期停滞は、設備投資と農山漁村から都市への労働移転を基軸に形成されてきた過剰な生産能力を、生活の浪費構造と輸出と公共事業で解消していくという戦後を主導してきた蓄積構造そのものが、もはや限界に達したことを示している。私たちは、このことを厳しく受け止めなければならない。
根源的な変革を避け、この構造的過剰に根本から手を打つ政策を見出せず手をこまねいているうちに、1990年代初頭からの「失われた20年」は、もうとうに過ぎてしまった。この間、「景気回復」とか「高度成長をもう一度」の幻想を捨てきれないまま、旧態依然たる政策がズルズルと続けられてきた。その結果、むしろ事態はますます悪化していくばかりである。
私たちは、この「失われた20年」から本当に何を学ぶべきなのか。「菜園家族」社会構想など時代錯誤だと言ってうかうかしているうちに、今度は「失われた30年」が瞬く間に過ぎていく。長引けば長引くほど、根本的な再建はそれだけ遠退き、ますます困難になる。
2012年12月にはじまる第二次安倍政権は、国民生活を質に入れての一か八かの危険極まりない「賭け」に出た。「アベノミクス」、そして黒田日銀の「異次元金融緩和」とやらでサプライズに湧き、円安・株高・債券高の流れが一気に強まったと、世の中はにわかに浮かれていたが、それも束の間、2020年新型コロナウイルス・パンデミックによって東京オリンピックは延期され、この虚構の「景気回復」ムードのメッキも一気に剥がれ落ちた。
ひと時のお祭り騒ぎも終わり、まもなく2022年2月にはウクライナ戦争が勃発。一握りの富裕層はいざ知らず、大多数の国民にとって生活はますます厳しくなっている。
際限なく続出してくる問題群の一つ一つの対処に振り回されながら、その都度、絆創膏を貼り、セーフティーネットを張るといった類いのその場凌ぎのいわば対症療法は、もはや限界に達していることを知るべきである。
今、本当に必要なのは、問題が起こってからの事後処理ではなく、問題が発生する大本(おおもと)の社会のあり方そのものを変えることである。衰弱しきった今日の社会の体質を根本から変えていく原因療法に、本格的に取り組むことである。
それは少なくとも10年先、20年先、30年先、50年先をしっかりと見据え、長期展望に立って、戦後社会の構造的矛盾を人間の社会的生存形態と家族や地域のあり方の根底から着実に変革しつつ、再建の礎を根気よく一つ一つ積み上げていく過程なのである。
経済成長至上主義の野望によって、そして御用学者や評論家の甘言によって、問題の所在をいつの間にか曖昧にされ、後退を余儀なくされてきたが、ここでもう一度しっかり心に留めておかなければならないことがある。
IPCC特別報告書『1.5℃の地球温暖化』(2018年)によると、私たち人類は、25年後の2050年までに、CO2など温室効果ガス排出量を実質ゼロにしなければならない重い課題を背負わされている。
「CO2排出量ゼロのクリーン・エネルギー」とにわかに持ち上げられた原発も、2011年3・11福島原発事故によって、その途方もない危険性を今や誰もが認識するに至った。
自己の存在すら根底から否定されかねないこの大問題に誠実に向き合い、その解決を本当に望むのであれば、原発をただちに無くし、世界の多くの人々がめざそうとしているCO2削減のこの国際的な目標に合わせて、10年、20年、そして30年先を見据え、CO2削減とエネルギーや資源の浪費抑制にとって決定的な鍵となる、「菜園家族」を基調とするCFP複合社会を構想し、その実現をめざすことを、「夢物語」などと言ってはいられないのではないか。
むしろそれは、脱原発や地球環境問題で高まりつつある国際的な議論と運動の重要な一翼を担い、その先進的な役割を果たしていくことにもなるにちがいない。何よりも子どもや孫たちの未来のために、あるべき姿を描き、その目標に向かって少しでも早く第一歩を踏み出し、できる限りの努力を重ねることこそが大切なのである。
「菜園家族」を基調とするCFP複合社会の構築と、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)の再生。
このCFP複合社会は、自然循環型共生の理念を志向する民衆主体の本当の意味での民主的な地方自治体の誕生と、それらを基盤に成立する真に民主的な政府のもとではじめて、本格的に生成、熟成されていく。この新しい政府のもとでこそ、社会・経済の客観的変化とその時点での現実を十分に組み込みながら、自然循環型共生の理念にふさわしい財政・金融・貿易など、抜本的かつ画期的なマクロ経済政策を打ち出すことができるのである。
この時はじめて、家族や地域、そして社会、教育・文化など、包括的かつ具体的な政策を全面的に展開し、遂行していくことが可能になろう。その結果、子育て・医療・介護・年金などについても、生活者本位の新たな税財政のもとで、公的機能と、次第に甦ってくる家族および地域コミュニティの力量とを有機的に結合した、新しい時代にふさわしい人間の温もりある高次の社会保障制度が確立されていく。
連載「希望の明日へ ―個別具体の中のリアルな真実―」の第2章4節で提起した「CO2削減(C)と菜園家族(S)創出の促進(S)機構(K)」(略称CSSK)によるCSSKメカニズムは、このようなCFP複合社会の「本格形成期」に先立つ「揺籃期」とも言うべき初動の段階からでも、都道府県レベルで順次、不完全ながらもその駆動を開始していくことになるであろう。それは、全国規模でのCFP複合社会の「本格形成期」への移行を促す前提となる基盤を、身近な地域から着実に築いていくことでもある。
そして、いよいよ自然循環型共生の理念、すなわち「菜園家族」を土台に築く円熟した先進福祉大国を志向する、草の根の民衆主体の新しい政府が樹立された暁には、このCSSKメカニズムも全国レベルの本格的なシステムと機能に成長し、新しい政府による「包括的かつ具体的な政策の全面的展開」と相俟って、いっそう重要な役割を担い、格段の効果を発揮していくにちがいない。
身近な郷土の「点検・調査・立案」から21世紀の未来が見えてくる
私たちは、これまであまりにも多くの時間を費やしながらも、今ようやく「菜園家族」を基調とするCFP複合社会のまさに「揺籃期」の入口に立とうとしている。手はじめに何からスタートすべきなのであろうか。
それは、陳腐かつまどろっこしく思われるかもしれないが、革新的地域研究としての「地域生態学」の理念と方法を基軸に、何よりも自らが暮らす郷土に、一つの特定の“森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)”モデルを選定し、それをそれぞれが自らの身近な問題として、具体的に考えることからはじめることなのではないだろうか。
そして、その「地域」がめざすべき未来像を明確にするために、子どもや若者やお年寄りを含め、世代を超えた住民・市民自らが、郷土の「点検・調査・立案」という認識と実践の連続らせん円環運動に加わり、粘り強く取り組むことであろう。
その際大切なのは、この連続らせん円環運動の初動の作業仮説として、世の「常識」に流されず、できる限り「地域」の現実に即して、郷土の未来像を不完全であっても、まずは大胆に素描してみることである。
こうした仮説設定とその後の検証を繰り返すことによってはじめて、自らの「地域」の本当の姿が見えてくる。そこから、自らの「地域」とわが国のめざすべき未来像も、より具体的に浮かび上がってくるはずだ。
戦後まもなく、名著『中世的世界の形成』(1946年)で知られる歴史家石母田正が、上から与えられる歴史に対峙して、「民衆のいるところ、生活のあるところにはどこにでも豊かな歴史がある」、そうした歴史は「民衆自身が書かねばならない」(「村の歴史・工場の歴史」『歴史評論』3-1、1948年)と呼びかけたのを機に、自らの村や工場の歴史の掘りおこしと学び合いを通して、戦後民主主義を担う主体形成につなげていった「国民のための歴史学」運動。
そこに込められた精神こそが、現代の衰退しきった私たちの民衆運動に取り戻さなければならない最も大切なものではないのか。
今日の自らの現実に立ち向かい、郷土の未来像を描く「点検・調査・立案」の認識と実践の終わりのない連続らせん円環運動は、かつての「国民のための歴史学」運動を彷彿とさせるに足る、いわば「民衆による民衆のための地域未来学」運動とでも呼ぶべき、21世紀の新たなムーブメントの提起とも言える。
先に提起した「21世紀この国と地域の未来を考える 自然(じねん)懇話会」(仮称)は、こうした運動をそれぞれの身近な「地域」でスタートさせる最初の一歩であり、母体となるものである。
明日への確かな目標に向かって努力するこうした草の根の地道な活動を抜きにしては、一握りの為政者と巨大金融資本、グローバル多国籍企業による巨大化の道に抗して「地域」の自立をはかり、未来への道を切り拓く手立てはないと言ってもいい。迂遠に思われるかもしれないが、これこそが現実的に考えられる本当の意味での近道ではないだろうか。
それはまさしく目先の「選挙」だけに矮小化され、澱(おり)のようにこびりついた欺瞞の「お任せ民主主義」の社会的悪習を排し、めざすべき21世紀の未来社会を展望しつつ、何よりもまず、自らの足元から、自らの手で、自らの主体性を確立していくことなのだ。こうした自律的で民衆の生活に深く根ざした、包括的で豊かな国民的運動が切に待たれるのである。
このような地道な創造への実践にこそ、真の生きる喜びがある。
格差と不条理、分断と対立の連鎖を断ち切り、大地の香りと自然の色彩に満ち溢れた、人間性豊かな新たな世界の創造。「菜園家族」を土台に築く近代超克の円熟した先進福祉大国への道は、決して虚しい夢ではない。
今は不可能だと思われがちな、生命系の未来社会論具現化の道としての「菜園家族」社会構想も、多くの人々の切なる願いと、さまざまな「地域」の人々の長年にわたる試行錯誤の積み重ねの上に、その実現への可能性が次第に膨らんでいくにちがいない。
まさにこれこそが、日本国憲法第二五条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の具現化の道なのである。
意志あるところに
道は開ける。
◆“高次自然社会への道”(その1)の引用・参考文献◆
安藤昌益「稿本 自然真営道」『安藤昌益全集』(第一巻~第七巻)、農山漁村文化協会、1982~1983年
森岡孝二『働きすぎの時代』岩波新書、2005年
森岡孝二『過労死は何を告発しているか ―現代日本の企業と労働』岩波現代文庫、2013年
熊沢誠『リストラとワークシェアリング』岩波新書、2003年
熊沢誠『労働組合運動とはなにか ―絆のある働き方をもとめて』岩波書店、2013年
長坂寿久『オランダモデル ―制度疲労なき成熟社会―』日本経済新聞社、2000年
田中洋子「ドイツにおける時間政策の展開」『日本労働研究雑誌』第619号、2012年
工藤律子『ルポ 雇用なしで生きる―スペイン発「もうひとつの生き方」への挑戦』岩波書店、2016年
竹信三恵子・戒能民恵・瀬山紀子 編『官製ワーキングプアの女性たち―あなたを支える人たちのリアル―』岩波ブックレット、2020年
浅倉むつ子『新しい労働世界とジェンダー平等』かもがわ出版、2022年
石母田正「村の歴史・工場の歴史」『歴史評論』第31⁃1号、1948年
高田雅士「1950年代前半における『知識人と民衆』―国民的歴史学運動指導者奥田修三の『自己変革』経験から―」『歴史学研究』970号、績文堂出版、2018年
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2024年3月15日
里山研究庵Nomad
小貫雅男・伊藤恵子
◆ 新企画連載「希望の明日へ ―個別具体の中のリアルな真実―」(2023年11月~2024年3月)の≪目次一覧≫は、下記リンクのページをご覧ください。
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