“シリーズ21世紀の未来社会(全13章)”の要諦再読―その25―

“シリーズ21世紀の未来社会(全13章)”の
要諦再読 ―その25 ―

生命系の未来社会論具現化の道 <9>
―自然界の生命進化の奥深い秩序に連動し、展開―

「菜園家族的平和主義」の構築 ①
―いのちの思想を現実の世界へ―

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要諦再読 ―その25―
“「菜園家族的平和主義」の構築 ①”
(PDF:595KB、A4用紙9枚分)

アザラシ

人は誰しも
決して避けることのできない
死という宿命を背負いながらも
懸命に生きている。
 そもそも人間とは
 不憫としか言いようのない
 不確かな存在ではなかったのか。
だからこそなおのこと
 人は
 同じ悲哀を共有する同胞(きょうだい)として
 せめても他者に
 とことん寛容でありたいと
 願うのである。

今や常態化した
権力者による
「マッチポンプ」式の卑劣な応酬。
 だが、これだけは決して忘れてはならない
 戦争とは、結局、どんな理由があろうとも
 民衆同士に殺し合いを強いる
 国家権力による
 極悪非道の最大の犯罪そのものなのだ。

1 いのち軽視、いのち侮辱の「戦争俗論」の跳梁跋扈を憂える
 ―卑劣な企み「マッチポンプ」の繰り返し―

憎しみと暴力の坩堝(るつぼ)と化した世界 ―世界の構造的不条理への反旗
 今から10年前の2013年1月16日、はるか地の果てアルジェリアのサハラ砂漠の天然ガス施設で突如発生した人質事件は、わずか数日のうちに、先進資本主義大国および現地政府軍の強引な武力制圧によって、凄惨な結末に終わった。

 こうした中、同年1月28日、安倍晋三首相(当時)は、衆参両院の本会議で第二次安倍内閣発足後、初めての所信表明演説を行った。
 演説の冒頭、アルジェリア人質事件に触れ、「世界の最前線で活躍する、何の罪もない日本人が犠牲となったことは、痛恨の極みだ」と強調。「卑劣なテロ行為は、決して許されるものではなく、断固として非難する」とし、「国際社会と連携し、テロと闘い続ける」と声高に叫び胸を張った。

 一方的に断罪するこうした雰囲気が蔓延すればするほど、国民もわが身に降りかかるリスクのみに目を奪われ、事の本質を忘れ、ついには軍備増強やむなしとする、好戦的で偏狭なナショナリズムにますます陥っていく。
 こうした世情を背景に、為政者は在留邦人の保護、救出対策を口実に、この時とばかりに自衛隊法の改悪、集団的自衛権の必要性を説き、憲法改悪を企て、国防軍の創設へと加速化していく。

 このような時であるからこそなおのこと、センセーショナルで偏狭な見方を一転しなければならない。当該現地の民衆が置かれている立場に立って、わが身の本当の姿を照らし出し、この事件を深く考えてみる必要があるのではないだろうか。

 他国の荒涼とした砂漠のただ中に、唐突にも、ここはわが特別の領土だと言わんばかりに、あたかも治外法権でも主張するかのように、頑丈で物々しい鉄条網を張りめぐらしたミリタリーゾーン。その中で軍隊に守られながら、他国の地下資源を勝手気ままに吸い上げ、現地住民の犠牲の上に「快適で豊かな生活」を維持しようとするわが国はじめ先進諸国。

 一方、現地では、外国資本につながるごく一部の利権集団に富は集中し、風土に根ざした本来の生産と暮らしのあり方はないがしろにされる。圧倒的多数の民衆は貧窮に喘ぎ、外国資本と自国の軍事的強権体制への反発を募らせ、社会に不満が渦巻いていく。
 「反政府武装勢力」、そして各地に持続的に頻発するいわば「一揆」なるものは、資源主権と民族自決の精神に目覚めた、こうした民衆の広範で根強い心情に支えられたものなのではないのか。これを圧倒的に優位な軍事力によって、強引に制圧、殲滅する。

 まさにこの構図は、今にはじまったことではない。アフガニスタンおよびイラク、イランをはじめとする中東問題が、再び北アフリカへと逆流し、さらには世界各地へと拡延していく。

 こうもしてまで資源とエネルギーを浪費し、「便利で快適な生活」を追い求めたいとする先進資本主義国民の利己的願望。それを「豊かさ」と思い込まされている、ある意味では屈折し歪められた虚構の生活意識。この欺瞞と不正義の上にかろうじて成り立つ市場原理至上主義「拡大経済成長路線」の危うさ。この路線の行き着く先の断末魔を、この人質事件にまざまざと見る思いがする。

 はるか地の果てアルジェリアで起こったこの事件は、今までになく強烈にこれまでの私たちの暮らしのあり方、社会経済のあり方がいかに罪深いものであるかを告発している。と同時に、私たちの社会のあり方が、もはや限界に達していることをも示している。

 2015年、年明け早々から立て続けに起こったパリ新聞社襲撃事件、「イスラム国」二邦人人質事件、そしてその後も、中東・北アフリカ、アラビア半島最南端のイエメンへと相次ぎ、さらには同年11月13日のいわゆる「パリ同時テロ」へと、絶えることなく拡大していくこれら一連の事件。
 その深層に渦巻く民衆の不満や「一揆」は、今日の世界の構造的矛盾とその末期的症状の深刻さそのものを象徴するものではないのか。

 今や世界は、どの時代にも見られなかった、手の施しようのない、厄介極まりない険悪な事態に陥っている。不満を募らせ世界各地で激しく蜂起する民衆に対しては、超大国は徒党を組み、連日連夜の大々的な空爆によって応酬する。憎しみと暴力の報復の連鎖は、とどまるどころかますます拡大し、世界は血みどろの武力紛争の泥沼と化していく。
 暴力に対して暴力でもって対処することがいかに愚劣なことであるかを、特に超大国をはじめ諸大国は思い知るべきである。

 アルジェリア人質事件をめぐる先の構図、そして、北朝鮮問題、さらには今日のウクライナ戦争をめぐって切迫する核全面戦争への危機的事態には、今日の世界の構造的諸矛盾のすべてがいかんなく反映しているだけではなく、そこから何はさておき、先進資本主義国の民衆自身が学ばなければならない大切なものが、ぎっしり詰まっていることに気づくはずである。
 私たちは、自分たち自身の問題として、そこから何を引き出し、これから何をなすべきかが問われている。

対米従属路線にしがみつき、なおも自己の延命を企むわが国の権力支配層
 安倍首相(当時)は、病気による退任発表後ほとんど間を置かず、2020年9月11日、執拗にも「ミサイル阻止に関する安全保障政策の新たな方針」なるものについて談話を発表した。敵のミサイル基地などを直接攻撃する「敵基地攻撃能力」を保有する必要をにじませ、新たな政権に判断を委ねた。

 安倍首相(当時)は、談話を出した後、記者団に対し、「退任にあたり、今までの議論を整理した。次の内閣でもしっかり議論していただきたい」と語り、退陣前に一定の道筋をつけたことを強調した。
 談話は、北朝鮮のミサイル能力の向上を具体的に指摘し、陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の代替策として、弾道ミサイルの脅威から日本を守る迎撃能力を確保するとした。その執念の根深さに驚かざるを得ない。

 同2020年秋、自民党総裁選挙期間中、安倍政権を継承すると自らも公言した菅義偉内閣官房長官(当時)が、新型コロナウイルス・パンデミックのどさくさに紛れ、国民不在のうちに、そそくさと首相の座におさまった。

 菅義偉首相(当時)の就任早々の10月初め、明るみに出たのが、日本学術会議が推薦した会員候補6名の任命拒否問題である。
 日本学術会議は、戦前における軍事研究への科学技術協力の深い反省から戦後出発した、政治権力から独立した学者・研究者の組織で、「学者の国会」とも呼ばれている。菅首相(当時)は、政治権力をかさに、こうした組織にまで手を突っ込んできたのである。

 携帯電話料金の引き下げなど、さも庶民の味方であるかのような印象を振りまきながら、この政権は、発足後早々と、その本性とも言うべき姑息さと陰険さ、そして反動性を露わにした恰好である。
 これが彼らの言う民主主義なのである。

日本国憲法の平和主義、その具現化の確かな道を求めて
 ―「菜園家族的平和主義」の構築

 アベノミクスとその後継者が目論む「積極的平和主義」とは一体何なのか。
 この20年来、私たちは「菜園家族」社会構想を提起してきたのであるが、欺瞞に充ち満ちたこの「積極的平和主義」なるものの攻勢が、これを引き継いだ岸田文雄政権によって、ますます巧妙かつ強硬になってきた今、いよいよ「菜園家族的平和主義」を真剣に対峙しなければならない時に来ているとの思いを強くしている。

 既に安倍政権において、特定秘密保護法が強行採決(2013年12月)され、国家安全保障会議(日本版NSC)の設置(2013年12月)、武器輸出三原則の実質的全面否定(2014年4月)、ODAの他国軍支援解禁(2015年2月)、防衛省の資金提供による大学等における軍事研究の推進(2015年度~)、そして解釈改憲による集団的自衛権の行使容認(2014年7月)、さらには「敵基地攻撃」の法制化の企みなど、国民を戦争の惨禍に晒す、きわめて危険な体制の総仕上げが急速に進められてきた。

 こうした中で浮上してきたのが、先にも触れた、菅義偉政権による日本学術会議会員候補の任命拒否問題である。このまま放置すれば、国民の目と耳を遮断し口を塞ぐブラックボックスができあがる。権力者は国民が知らぬ間に、思いのままに既成事実を積み上げ、ついには危険きわまりない戦争の道へと引きずり込んでいく。これでは、かつての暗くて恐ろしい秘密警察国家の時代を再現しかねない。

 今日、ウクライナ戦争を契機に、ロシアの脅威、台湾海峡問題、北朝鮮問題や中国の大国化を口実に、ますます強まる反動的潮流のただ中にあって、「菜園家族的平和主義」こそが、日本国憲法が謳う「平和主義」、「基本的人権(生存権を含む)の尊重」、「主権在民」の三原則の精神をこの日本社会に具現化する、今日考えられるもっとも現実的かつ確かな方法であり、しかも未来への道筋を具体的に明示しうるものではないかと、その確信を深めるに至っている。

 なかんずく「平和主義」についてさらに敷衍して述べるならば、この「菜園家族的平和主義」は、これまで人間社会に宿命的とまで思われてきた戦争への衝動を単に緩和するだけにとどまらない。
 既に述べてきた、生命系の未来社会論具現化の道である「菜園家族」社会構想、つまり、わが国独自の週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリング(但し1≦α≦4)による社会構想では、大地から引き離され、根なし草同然となった現代賃金労働者(サラリーマン)家族に、従来型の雇用労働を分かちあった上で、生きるに最低限必要な生産手段(農地や生産用具、家屋など)を再び取り戻し、社会の基礎単位である家族を抗市場免疫の優れた体質に変革していく。

 このようにして生まれた「菜園家族」が、社会の土台をあまねく埋め尽くすことによってはじめて、熾烈な市場競争は、社会の深部から自律的に抑制されていくことになる。資源・エネルギー、および商品市場の地球規模での際限なき獲得競争という戦争への衝動の主要因は、こうして社会のおおもとからしだいに除去されていくであろう。
 その結果、戦争への衝動はしだいに抑えられ、他者および他国との平和的共存・共生が、その社会の本質上、おのずと実現されていくことになろう。

 21世紀こそ、戦争のない平和な世界を実現していくためにも、根なし草同然となったこの賃金労働者という人間の社会的生存形態を根本から変えることによって、18世紀産業革命以来の近代社会のあり方そのものを超克するという、こうした根源的な社会変革こそが待たれるのである。
 こうした趣旨から、ここではまず、日本国憲法第九条の条文とその精神を原点に立ち返り確認した上で、非戦・平和の問題を私たち自身の暮らしのあり方に引き寄せて、さらに考えていきたいと思う。

2 今断罪されるべきは、権力的為政者の姑息な解釈改憲による
  長きにわたる既成事実の積み重ねそのものである

アベノミクス主導の解釈改憲強行の歴史的暴挙
 2014年7月1日、ついに安倍内閣は、条文をいじらずに、憲法第九条の解釈を変更することによって、これまで行使できないとされてきた集団的自衛権の行使容認の閣議決定を一方的に行った。これだと国会の議決すらせずに済むという魂胆だ。

 もともと憲法違反である武力による個別的自衛権を勝手な憲法解釈によって認め、不当にも既成事実を積み重ねてきた歴代内閣も、さすがに他国に対する武力攻撃の場合でも自衛隊が反撃する集団的自衛権の行使については、長年、憲法解釈上禁じてきた。

 ところが、安倍内閣はそれすらも崩し、憲法の柱である平和主義を根底から覆す解釈改憲を行ったのである。国民の命運に関わる、憲法改定に等しいこの大転換を、国民は蚊帳の外に置き、自・公与党内の密室協議という猿芝居を延々と見せつけ、果てには議論は熟したと称して強行する歴史的暴挙であった。

 あとは安全保障関連法案を国会に一括提出して、得票数と議席数の甚だしい乖離を生む違憲まがいの小選挙区制のもとで、既に準備された虚構の絶対多数の議席をもって押し切れば済むということなのだ。

 こんな子ども騙しのようなことを平然とやってのける。これが彼ら権力的為政者の言う「自由と民主主義」の実態なのだ。あまりにも「政治」にウソが多すぎる。
 立憲主義と国民主権の破壊に直面し、多くの人々は、暗い時代への急傾斜に不気味さと不安を感じている。

 そして、ついに2015年9月19日未明、国民の声に一切耳を貸そうともせず、安倍政権は数の暴力によって、憲法に真っ向から違反する「戦争法案」なるものを参院本会議で強行採決するに至ったのである。

あらためて日本国憲法を素直に読みたい
 今あらためて、普通に生きている庶民である生活者としての私たち個々の人間にとって、あれこれの屁理屈やつまらない大義名分はいいとして、戦争とは一体何なのか、真剣に、かつ根源的に問い直す時に来ている。

 戦争を侵略のためだと言って仕掛けた為政者はいたためしがないし、これからもないであろう。決まってもっともらしい理屈をいろいろと捏ねる。国家の平和と繁栄のため、国民のいのちと平和な暮らしを守るため、自衛のため、果てには国際平和のために戦うなどと平然と言う。はたまた戦争を抑止するために戦力を備える必要がある、とも言うのである。
 これは、憲法第九条によって戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認の制約の下にある、特にわが国の為政者が好んで使うダマシのための常套的「抑止論」である。

 戦争を抑止するために戦力を備え、増強するとなれば、その戦力はあくまでも相対的なものであるから、敵味方双方とも疑心暗鬼に陥り、それぞれ自国民の血税を注いで軍備を際限なく拡大していくことになる。とどのつまり、核兵器に至るまで莫大な殺傷能力と破壊力が双方に蓄積され、一触即発の世界全面戦争の危機的状況に達する。

 戦争はこうして起こる。そしてついには、双方の民衆もろとも、取り返しのつかない悲惨な運命を辿ることになるのである。
 過去の世界大戦のみならず、すべての戦争はこうしてはじまり、このような結末に終わる。シリーズ“21世紀の未来社会(全13章)”のプロローグでも触れた、アジア・太平洋戦争における自らの実体験を文学作品に結晶させた大岡昇平著『俘虜記』を、ここでもう一度、思い起こしていただきたい。

 今日のウクライナ戦争も、同じ危機に直面している。たとえ「自衛のための戦争」といえども、その結末は同じである。これらすべての根底には、「武力には武力を」という衝動としか言いようのない、実に根深い悲しむべき思想が横たわっている。

 日本国憲法は、こうした過去の愚かで悲惨きわまりない実体験への深い反省から導き出された結論であり、世界に誇る英知なのだ。
 憲法前文および第九条の条文を素直に読みさえすれば、歴代政権の憲法違反の既成事実の積み重ねによって、私たちは憲法の精神からはるかに後退したところで議論を余儀なくされていることに気づくはずだ。

 戦争とは、国権の発動によって「合法的に」、しかも白昼何のためらいもなく、民衆同士の殺し合いを強制する、国家権力による極悪非道の犯罪行為そのものである。
 私たちは、日本国憲法の平和条項をすっかり忘れ、悪に染まり、もはや馴らされてしまったのであろうか。

アベノミクス「積極的平和主義」の内実たるや
 すべての人間が生まれながらにして授かっているとされる自然権としての「自衛」と、国権の発動たる軍隊の戦力の行使による「自衛」とは、日本国憲法の下では、本来峻別されなければならないものである。
 もちろん軍隊の戦力の行使以外に限るならば、個々人のレベルで自らの身を守る諸々の「自衛」は、自然権として当然のことながら認められる。しかし、この両者を決して混同してはならない。

 憲法第九条で戦力の不保持が明確に規定されている以上、たとえ「自衛」の名の下においても、国権の発動たる戦力の行使は決してありえないのである。これが、日本国憲法下で許されるもともとの「自衛」のあり方なのである。
 これは、憲法に法文上書かれているからだけではなく、過去の悲惨な戦争の実体験から導き出された実に重い教訓でもあり、深い思想でもあるのだ。

 これまでの歴代政権の憲法解釈では、「日本が直接攻撃を受けた際に反撃できる個別的自衛権の行使は認められる」とされてきた。しかし、ここで言う「反撃」が国権の発動たる戦力の行使によるものであれば、憲法違反と見なければならない。
 なぜならば、そもそも憲法第九条は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄」し、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と明確に規定しているからだ。

 もともと日本国憲法は戦力の保持自体を否定しているのであるから、個別的自衛権と言えども、憲法で認められていない武力を行使できようはずがない。ましてや他国の戦争に加わり武力を行使する集団的自衛権などは、憲法上論外であり、到底認められるものではないことは自明である。
 このことは、憲法を虚心坦懐にそれこそ素直に読みさえすれば、子どもでも分かる道理であるはずだ。それを殊更もっともらしく、あれやこれやと屁理屈を並べ立て、国民を欺くとは実に恥ずべきことではないか。

 「ロシアを見よ、北朝鮮を見よ、中国を見よ、南シナ海を見よ、中東を見よ、アフリカを見よ。日本の周辺事態および世界の安保環境は大きく変わったではないか――」。この現実の変化に対処するために、まやかしの「積極的平和主義」なるものを臆面もなく持ち出してくる。

 その「積極的平和主義」の内実たるや、憲法の解釈変更によって集団的自衛権の行使を可能にし、外国に自衛隊を出し、戦争に参加し、国際平和のために貢献するというものなのである。そして、自衛のために、国民のいのちと平和な暮らしを守るために、国際平和のために日米軍事同盟のもとで抑止力の強化を、と並べ立てる。
 結局、憲法が否定したはずの「陸海空軍その他の戦力」を保持し、さらに増強し、海外へ出て行くというのである。

 外からの脅威を煽り、莫大な国民の血税をそれこそ勝手に注ぎ込む。軍拡競争は際限なくエスカレートしていく。ついには一触即発の危機的状態に陥っていく。いざとなればミサイルが飛び交う核戦争の時代、きっかけをつくれば勝者も敗者もない。
 アベノミクス「積極的平和主義」を標榜する抑止論者、これを引き継ぐ岸田政権は、このことをしかと肝に銘じておくべきだ。これこそ歴史と現実を見ずに、口先だけで「国民のいのちと平和な暮らしを守り抜く」と豪語する空理空論ではないのか。

 戦争にそんな無駄金を使うぐらいなら、今、国民がもっとも必要としている感染症防止対策や、育児・教育・医療・介護・年金など社会保障、非正規・不安定雇用の問題、特に若年層の雇用対策にまじめに取り組み、文化芸術・スポーツに意を注いだ方が、よっぽど人間の精神を豊かにし、社会を、そして世界を戦争のない平和な状態に導いていくことができるはずだ。

「自衛」の名の下に戦った沖縄戦の結末は
 こう言うと決まって出てくるのは、「敵が攻撃してきたら、どうするのか」という、国民の不安につけ込む脅しである。これも、戦争推進者がきまって使ってきた、昔も今も変わらぬ常套句である。こうした論法をまともに受けて、民衆は戦争に駆り出されてきた。

 ここで、戦争の問題を考える上で思い起こさなければならない大切なことがある。
 それは、イギリス植民地下のマハトマ・ガンジー(1869~1948)が、圧倒的に強大な権力の圧政、弾圧、暴力に暴力をもって対抗すれば、むしろ暴力の連鎖をいっそう拡大させてしまう、という当時のインドと世界の現実から学びとり到達した非暴力・不服従の思想である。

 さらには、太平洋戦争下での沖縄戦を考えれば、戦争の本質はいっそう理解できるはずだ。沖縄戦において一般住民を丸ごと巻き込み、あの想像を絶する犠牲を出したのも、結局、「軍隊が国家国民を守る」という大義名分の下で、住民を守るどころか、軍隊が軍隊の論理で敵と戦ったからである。

 軍隊の持つ戦力は、それを行使しようとしまいと、そこにあるだけで敵の戦力を最大限に誘引する。住民の居住地域は、軍隊がそこに戦力を構えているだけで、攻撃の対象となって集中砲火を浴びせられ、壮絶な戦場と化し、住民丸ごと犠牲となることを意味している。それは、昔も今も変わらない。

 軍隊が戦力を実際に行使しなくても、戦力を十分に備えておけば、戦争を抑止できるというのが、抑止論者の戦力保持のための口実である。しかし沖縄戦は、それとはまったく逆の結果になることを事実をもって示している。抑止論は、もう既に破綻しているのである。
 憲法第九条の「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」は、観念や空想から導き出されたものではなく、こうした過去の数々の悲惨な具体的現実から導き出された結論なのである。これこそ、尊いいのちの犠牲によって人類がやっと獲得した、何ものにも代え難い深くて重い教訓であり、人々が現実からくみ取った実に貴重な知恵なのだ。

(次回 ◆要諦再読◆ ―その26― につづく)

2023年8月10日
里山研究庵Nomad
小貫雅男・伊藤恵子

「要諦再読 その25」の引用・参考文献
益川敏英『科学者は戦争で何をしたか』集英社新書、2015年
池内了『科学者と軍事研究』岩波新書、2017年
栗田禎子「『集団的自衛権』問題の正体 ―『集団的帝国主義』の時代の日本型ファシズム―」『歴史学研究』927号、青木書店、2015年
伊藤真・神原元・布施祐仁『9条の挑戦 ―非軍事中立戦略のリアリズム』大月書店、2018年
トルストイ 著、中村白葉 訳『トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇』岩波文庫、1932年第1刷発行
M・K・ガンディー『真の独立への道』岩波文庫、2001年
大岡昇平『俘虜記』新潮文庫、1967年(初版は創元社、1948年)

       ――― ◇ ◇ ―――

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