超大国の覇権抗争とウクライナ戦争の悲劇
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超大国の覇権抗争とウクライナ戦争の悲劇
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超大国の覇権抗争とウクライナ戦争の悲劇
―双方とも条件を付けず即時停戦を、
ここから民衆の新たな未来がはじまる―
小貫雅男・伊藤恵子
◆目次◆
はじめに
Ⅰ 没後百年を生きるトルストイの思想(転載)
法橋和彦(ロシア文学研究者、大阪外国語大学名誉教授)
Ⅱ ウクライナ危機にあたり「菜園家族」は呼びかける(再録)
小貫雅男・伊藤恵子(里山研究庵Nomad)
Ⅲ ウクライナでの凄惨な悲劇に思う(再録)
久島恒知(元 映像プロダクション・プロデューサー)
Ⅳ 日本国憲法前文および第九条(日本語、英語、ウクライナ語、ロシア語)
むすびにかえて
――― ◇ ◇ ―――
はじめに
一方的に流される情報の氾濫の中で、今一度、ひとりの人間として原点に立ち返り、ウクライナをめぐるこのたびの戦争の闇と本質を見極め、明日への新たな道を探るために、あらためてここにいくつかの資料を掲載したいと思う。
Ⅰ 没後百年を生きるトルストイの思想(転載)
20世紀初頭、夏目漱石は初めてロンドン留学中にトルストイ伯の著作に接した。なかでもシェークスピアの勉強を始めた漱石がその劇作の反人民性を批判する伯の激論『芸術とはなにか?』につよい衝撃をうけたことはよく知られている。
帰国後の漱石は日露戦争のさなかに『吾輩は猫である』を「ホトトギス」に連載し、戦後まもなくその第二部のはじめで山羊鬚の哲学者=八木独仙を登場させ、「馬鹿竹のはなし」をさせている。話は民話風に展開する。
昔おおきな石地蔵が往来のまんなかに居すわっていた。これでは街の繁盛の邪魔になる。そこで寄合っては地蔵を退かす算段があれこれと講じられた。しかし当の相手は石頭、力づくでも、酒肴で招けどびくともしない。巡査の強談判も駄目なら岩崎男爵の金力でも駄目、皇室の威光をかさにきようと不埒な脅しの手を使おうと何の利目もない。そこへ懐手をした馬鹿竹があらわれて、地蔵さんの耳もとでささやいた。町内の者が迷惑しているので動いてやんなさい。すると地蔵は、そうかそれなら早くそう言ってくれたらよかったのに、と笑顔で応じとことこ動きだすではないか。漱石の独仙先生は「いざと云う場合には馬鹿竹の様な正直な了見で物事を処理して頂きたい」とこの話をむすんでいる。
このエピソードを書く前に、漱石は内田魯庵から贈られたトルストイの『イワンの馬鹿』を読み、その礼状に「イワンの教訓は西欧的にあらず、むしろ東洋的と存候」と書いている。こうして馬鹿竹がイワンの馬鹿になりかわって日本への移入をはたした。かれらはともに暴力や金力や不正な手段にたよらずにただただ「正直な了見」ひとつで難題に立ち向かう。
よく知られているように『猫』が書きつがれる戦中にはトルストイの非戦論『胸の底から考え直せ』が週刊平民新聞や東京朝日紙上に訳載され、これを漱石が読まなかったはずがない。不思議なことに日本が戦勝にわく時代に発表された『猫』には戦争にかかわる話は一行もでてこない。だがそのかわり漱石は熟慮のすえにただ一言、馬鹿竹の「正直な了見」を強調し称揚した。漱石はそのことによってトルストイの非戦思想に応じたのである。このインタナショナルな連帯性を『猫』の文脈から見落としてはいけない。
トルストイはなくなる25年前に書いた『イワンの馬鹿』のなかでともに一国の主(あるじ)となった軍人の長兄や商人の次兄が悪魔の策略にかかってひとたまりもなく破滅していく過程を民話風な大胆なタッチと素朴なデフォルメで描いている。戦時体制下では徴兵制を男子だけでなく独身女性にも課す国が優位にたち、国民総動員が期待されること、ことにインドの婦人部隊が胸にかかえた爆弾を空中から正確に投下する技術は、無差別大量虐殺へと向うバーチャルな未来戦争を完璧に予言している。ライト兄弟がわずか12秒、36メートルの初飛行に成功する18年も前になんとトルストイは爆撃機の出現を芸術的に予言していたのである。そしてその反面、すでに騎兵隊は兵力から除外されている。こうしたトルストイの独創的な未来戦争への洞察力がかれをして軍拡競争に反対する頑強な非戦論者に育てた。
それから20年後、トルストイは日露戦争に際して老子の『道徳経』第31章にみえる「夫佳兵者、不祥之器(それただへいは、ふしょうのき)」(いったい武器というものは不吉な悪魔の道具である)を無抵抗非戦の根拠にかかげ、「賢者はなによりも平和を好む。勝利を喜ぶのは人殺しを喜ぶことである。人殺しを喜ぶ人には、真に善き目的は達成できない」(老子)と書き記している。
トルストイにとって「人間社会の最高の物質的富は平和である。個人の最高の物質的富が健康であるように」(日記=1906.3.10)――こうした思想はトルストイの没後百年の今も生きつづけている。
法橋和彦(ロシア文学研究者、大阪外国語大学名誉教授)
※『日本とユーラシア』2010年12月15日号(発行 日本ユーラシア協会)に掲載された全文を転載。
Ⅱ ウクライナ危機にあたり「菜園家族」は呼びかける(再録)
今こそ世界の民衆は、非戦、非武装、非同盟・中立、そして権力不服従の精神を貫き、何よりも今、あらゆる国からの武器供与と売買を即刻中止させ、覇権同調、屈従の無意味な民衆同士の殺し合いに加担しない。
たとえどんなに不安を掻き立てられ、敵愾心を煽られようとも、憎しみと分断を克服し、民衆自らがすすんで、条件を付けず直ちに武器を捨てる。
世界中の民衆が「国境」を越え深く理解し合い、連帯し、超巨大権力からそれらに追従する泡沫に至るまで、内外のあらゆる覇権主義者たちを孤立させ、新たな地平を切り開くのである。
民衆同士が殺し合いをさせられる、実に馬鹿げたおぞましい覇権争奪戦争の連鎖を断ち切る道は、今やこれを措いてほかにない。
今こそ日本国民自らが、世界に誇る日本国憲法前文、および第九条の精神を堅持し、日米軍事同盟を排し、永世中立を貫き、自らの国土に非戦・平和の確かな礎となる自然循環型共生の新たな社会を築き、世界に先駆けて民衆の範となる。
2022年3月2日
小貫雅男・伊藤恵子(里山研究庵Nomad)
※里山研究庵Nomadホームページおよび“菜園家族じねんネットワーク日本列島”Facebookページに2022年3月2日付で掲載した記事の再録。
Ⅲ ウクライナでの凄惨な悲劇に思う(再録)
先日3月2日付で掲載した緊急メッセージ“ウクライナ危機にあたり「菜園家族」は呼びかける”に関連して、千葉県柏市の久島恒知さんから、里山研究庵Nomad宛にE-mailが届きました。
久島さんは、今から30年前、映像プロダクションのプロデューサーとして、ヨーグルトのルーツを辿る映像作品の制作のために、モンゴル遊牧地域と東欧ブルガリアを現地取材されました。
そのご縁で、私たちのドキュメンタリー映像作品『四季・遊牧』の制作と上映活動を一貫してサポートしていただくことになり、以来、長きにわたってご交流が続いています。
2011年3月11日の東日本大震災後は、自ら車に映写機材を積み、原発事故で避難を余儀なくされた福島県浪江町の方々のもとに通い、仮設住宅(福島市)の集会所を会場に、往年の名作を鑑賞しながら語り合う「出前映画館」を開催。大切な家族を失い、ふるさとを離れて不安の中で暮らす浪江の方々との交流を重ねてこられました。
現場に生きる普通の人々の目線に立って、社会のあり方を見つめ、考え続けてこられた久島さん。今回のウクライナ危機をめぐって綴って下さった思いを、以下に掲載させていただきます。どうぞお読み下さい。(里山研究庵Nomad 小貫・伊藤)
◇ウクライナでの凄惨な悲劇に思う◇
3月2日付の緊急メッセージ“ウクライナ危機にあたり「菜園家族」は呼びかける”に関連して、思い出したことを記します。
少し前(2020年)に、ロシア映画で『カラシニコフ・AK-47 最強の銃 誕生の秘密』というのがありました。これは、世界で最も普及した自動小銃(機関銃)を開発したソ連の一青年・カラシニコフの物語で、とても単純なサクセスストーリーです。
まるで自動車エンジンやカップラーメンを開発した人の物語のような作り様で、恋人とのロマンスなど織り交ぜていて、拍子抜けするほどのハッピーな作品に仕上がっています。
よくあるサクセスストーリー映画には、その製品(商品)が社会発展にどんな貢献をしたかが描かれますが、この『カラシニコフ・・・』ではそれが全く描かれていません。
何故なら、世界で1億~2億丁も作られたと言われる機関銃なので、それに見合う戦争殺人に貢献したのですから。安価で使いやすいために体制、反体制を問わず世界中で使われるヒット製品になったのでした。
この「武器が国を救う」と謳った映画を観た時、プーチンのプロパガンダ映画だなと思いましたが、いまどきこんなプロパガンダ映画が作られる国があるのかと、信じられませんでした。
しかし今となっては、ウクライナ軍事侵攻などへの布石が打たれていたのだろうとの想像は、あながち的外れではないことが分かります。
また、昨年NHK福岡支局制作の番組で知ったのですが、ベトナム戦争で使用された枯葉剤という残酷な化学兵器の原料が、米国の依頼で日本の三井化学が作って提供していたようです。当然、日本政府の仲介があったはずです。
枯葉剤は、その後の世界的批判のために米国も使用中止し、そのため残った猛毒な原料が九州各地の山林を中心に埋められてあるようです。三井化学の九州工場で作っていたので。それが近年の九州豪雨で流れ出す危険に晒されている、という番組内容でした。
兵器にはこのような闇に包まれた背景と膨大な利権が絡んでいることを、改めて思い起こすべきだと思いました。
プーチンロシアはとても分かりやすい悪役ですが、ウクライナ支援で武器供与をしているEU側にも同じような背景が隠れているだろうことを想像しないと、市民の平和は訪れないのではないでしょうか。
2022年3月9日
久島恒知(元 映像プロダクション・プロデューサー、千葉県柏市在住)
※“菜園家族じねんネットワーク日本列島”Facebookページに2022年3月10日付で掲載した記事の再録。
Ⅳ 日本国憲法前文および第九条(日本語、英語、ウクライナ語、ロシア語)
◇前文および第九条の掲載にあたって◇
歴代政権は戦後一貫して、姑息で卑怯な解釈改憲によって日本国憲法第九条をねじ曲げ、違憲の既成事実を積み重ねてきた。私たちは今、日本国憲法前文および第九条から、そしてその本来の精神からはるかに後退したところに立たされている。今日のこの状況に甘んじ、馴らされてはならない。
戦争を侵略のためだと言って戦争を仕掛けた為政者はいたためしがないし、これからもないであろう。決まってもっともらしい理屈をいろいろと捏ねる。国家の平和と繁栄のため、国民のいのちと平和な暮らしを守るため、自衛のため、果てには国際平和のために戦うなどと平然と言う。はたまた戦争を抑止するために戦力を備える必要がある、とも言うのである。それは、憲法第九条を掻い潜り、武力を保持するための実に卑劣なやり口なのだ。
その戦力は、たとえ戦争抑止のためと言えども、あくまで相対的なものであるから、敵味方双方とも疑心暗鬼に陥り、それぞれ自国民の血税を注いで軍備を際限なく拡大していくことになる。とどのつまり、核兵器に至るまで莫大な殺傷能力と破壊力が双方に蓄積され、一触即発の世界全面戦争の危機的状況に達する。過去の世界大戦のみならず、すべての戦争はこうしてはじまり、このような結末に終わる。
今日のウクライナ戦争も、同じ危機に直面している。「自衛のための戦力」、「自衛のための戦争」も、その結末は同じである。これらすべての根底には、「武力には武力を」という衝動としか言いようのない、実に根深い悲しむべき思想が横たわっている。
日本国憲法前文および第九条は、こうした過去の愚かで悲惨きわまりない実体験への深い反省から導き出された結論であり、世界の英知なのだ。
ウクライナ戦争の渦中にある今こそ、未来を担う小学生の子供たちや若者たちから、高齢者に至るまで、世代を越えてお互いに日本国憲法前文および第九条を愚直なまでに何度も読み返し、今日の日本と世界の現実から目を離すことなく、世界の人々とともに戦争と平和の問題を根源的に考え、語り合い、明日への希望へとつなげていくことが切に求められている。
ここに敢えて日本国憲法前文および第九条(日本語、英語)を掲載することにした。
ウクライナ語とロシア語については、日本ユーラシア協会発行のリーフレット「日本国憲法第9条を世界に普及しよう!」を活用し、それぞれ第九条の訳文を掲載させていただいた。
――― * * ―――
◇日本国憲法◇
前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
◇英訳 日本国憲法(前文および第九条)◇
THE CONSTITUTION OF JAPAN
We, the Japanese people, acting though our duly elected representatives in National Diet, determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land, and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government, do proclaim that sovereign power resides with the people and do firmly establish this Constitution. Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the power of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people. This is a universal principle of mankind upon which this Constitution is founded. We reject and revoke all constitutions, laws, ordinances, and rescripts in conflict herewith.
We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world. We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth. We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want.
We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.
We, the Japanese people, pledge our national honor to accomplish these high ideals and purposes with all our resources.
CHAPTERⅡ. RENUNCIATION OF WAR
Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
◇ウクライナ語訳 日本国憲法(第九条)◇
リーフレット「日本国憲法第9条を世界に普及しよう!」(発行 日本ユーラシア協会)より転載。
◇ロシア語訳 日本国憲法(第九条)◇
同上リーフレットより転載。
――― * * ―――
むすびにかえて
冒頭の論考で法橋和彦氏が取り上げているトルストイの「イワンの馬鹿」は、岩波文庫『トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇』(中村白葉 訳、1932年第1刷発行)の中に、「イワンのばかとそのふたりの兄弟」として収められている。
文庫本の表紙には、「ここに収められた(中略)民話には、愛すべきロシアの大地のにおいがする。そして民話の素朴な美しさの中に厳しい試練に耐えぬいたトルストイ(1828~1910)の思想の深みがのぞいている。ロマン・ロランが“芸術以上の芸術”“永遠なるもの”と絶賛し、作者自身全著作中もっとも重きをおいた作品。」と紹介されている。
そして、巻末の解説の中で、訳者中村白葉氏は、「『イワンのばか』は、一面においてロシア人の底抜けの善意と大きさ、愚直さの象徴であり憧憬であると同時に、トルストイその人の底抜けの正直さ、大きさ、善意の象徴であり憧憬でもある。国民としても、個人としても、私は、イワンのばか的要素を尊いとも大切とも考える。小りこう性の多いわれら日本人にはとくに、ロシア人のようにいま少しこの要素がほしいと思うのは、はたして私だけだろうか。」と遠慮深く付け加えている。
反ロシア、反中国、反北朝鮮、嫌韓・・・キャンペーンの中で、偏狭な民族蔑視が助長されている今日の状況下にあって、この指摘は、ますます大切になっている。
ところで、「イワンのばかとそのふたりの兄弟」は、副題にある通り、軍人の長男セミョーンと、ほてい腹の商人・次男タラースと、唖の妹マラーニャと、老悪魔と、三人の小悪魔の主要登場人物たちの織り成す物語である。
長男の軍人セミョーンには、戦争に対する批判的態度が具象化されているし、ほていのタラースは、資本主義的人格の典型であり、両親のあとを継いだ三男イワンは、手にたこをつくり、正直に働く直耕のお人好しのロシア農民の典型であり、唖の妹マラーニャは、世間からは何一つできないと蔑まれながらも、兄のイワンを手伝い、健気に生きる農民女性を形象化している。
妹のマラーニャは作中あまり登場してこないのであるが、村びとの中に溶け込み、ひたむきに働く。その一つひとつの所作や一途な姿が、不思議に憂いをおびた幽かな基底音となって、いつまでも読む人の心の奥底に響いてくる。トルストイがこの女性をそっと作中の片隅に設定したのは、偶然ではなく、必然と言うほかない。
訳者の中村氏が指摘しているように、この作品には、特権階級の寄食性に対する永遠の摘発、人生観、道徳観、汎労働主義もあれば、非武装・無抵抗主義もあり、商品・貨幣経済への告発もあれば、反戦の思想もあり、徹底的な人間平等の思想も貫かれている。
それは、自然観と社会観を統一的に捉え、人間社会の階級性を断罪した点で、わが国における近世江戸中期の安藤昌益(1703~1762)※1 の思想に通底するものがある。
「イワンのばか」は、本当の「馬鹿」であったのであろうか。イワンが世間の常識からは突き抜けて、まったく異なる次元の価値観、世界観、社会観、人生観に立脚していたが故に、他人から無理難題を頼まれても、お人好しに、おおらかに「ああ、いいとも!」と受け入れる。この言葉は、60ページ足らずのこの短編の中に、繰り返し何度も出てくる。世間の人からすれば、驚くべき「馬鹿」に映るのも無理もない。
やがて時が経ち誕生した「イワンのばかの国」からは、賢い人はみんな出て行ってしまい、ただ、ばかだけがあとに残り、噂を聞いて、外からばかたちが移住してきた。誰もがお金というものを持たず、働いて自ら養った。
タラカン王(油虫王の意)は、大きな軍隊を集め、鉄砲や大砲を用意し、兵力を増強して国境近くに集結させ、イワン王国へ侵攻した。
武器もない、兵隊もいない「イワンのばかの国」は、果たしてどうなったのか。この王国に侵攻した軍隊は、勇んでみても戦う相手がどこにもおらず、「まるでゼリーでも切るような」手応えのなさに呆気にとられ、戦意を失って雲散霧消し、ほどなくこの「ばかの国」に飲み込まれてしまうのである。
この描写に込められたトルストイの深い思想は、ぜひとも作品そのものをじっくり読んで味わい、汲み取っていただきたい。
さて、21世紀の今日引き起こされたウクライナ戦争は、本年2月24日のロシアの軍事侵攻開始から1ヵ月以上が過ぎても、停戦の目途すら立っていない。ウクライナのゼレンスキー大統領の要請によるNATO(北大西洋条約機構)、欧米諸国からの武器供与は、かえってプーチン政権をしてロシア軍のいっそうの兵力増強と攻撃激化へと駆り立てる。ウクライナ国土を戦場に双方の莫大な火力が投下され、民間人を含む人命の殺傷と市街の破壊にいよいよ拍車をかけていく。
欧米諸国がロシアへの経済制裁と軍事攻勢を強めれば強めるほど、プーチン政権・ロシア軍部を生物・化学兵器、核兵器の使用へとエスカレートさせ、勝者も敗者もない人類破滅の第三次世界大戦へと暴発させかねない。これが極悪非道のプーチン断罪をひたすら掲げ、「ウクライナ支援」と称してやっていることの真相であり、本質である。
連日連夜、世界の人々は、新聞やテレビを通じて、ロシア軍によるウクライナ侵攻のニュースを悲痛な思いで目にし、耳にしている。攻撃を受け、死傷者が続出し、家族が分断され、老人や子供たちが逃げ惑い、生き地獄の中で不安と恐怖に怯えている。一民衆に過ぎないロシア兵の側にも多くの死傷者が出て、母親や家族・友人たちが泣いている。かつてのソ連邦の同胞であり、昨日までの隣人同士が、憎しみ合い、傷つけ合い、殺し合っている。
解決のために各国首脳が表向き派手に国際会議を演出するものの、まったく進展が見られない。一刻の先延ばしの猶予も許されない、凄惨な光景を目の前にしながら、一体なぜなのか。それは、各国首脳の本当の眼目が、これ以上の犠牲者を増やさないという、人命最優先の本来あるべき一点にあるのではなく、結局その背後には、覇権抗争を如何に自らに有利に展開させるかという、アメリカはじめ超大国、そしてそれを取り巻く諸大国支配層それぞれの思惑が働いているからだ。
この膠着状態を一刻も早く打開しなければならない。世界各国の民衆が非同盟・中立、非武装・不戦、そして権力不服従の精神を貫き、自ら進んで武器を捨て、自国政府に向かって武器供与と売買、軍事支援を即刻中止させ、このうねりを世界の隅々にまで広げていくのである。各国政府の首脳に頼っていては、この何とも言いようのない無気味な膠着状態から抜け出すことができないばかりか、全面的な核世界大戦にすら発展しかねない。
一旦、戦争がはじまると、戦争指導者のみならず、兵士、そして一般市民ですら理性と倫理性を無残にも破壊され、特に戦場の兵士は野獣と化し、蛮行に走る。これが戦争の本質である。
ウクライナの国民が今もっとも望んでいることは、民衆同士の殺し合いではない。超大国覇権抗争の犠牲とも言うべきこの生き地獄からの脱出であり、元の暮らしに一日も早く戻ることではないのか。
ウクライナの民衆は、何よりもまず国民の生命と暮らしを守らなければならない責任を負っているはずのゼレンスキー大統領と自らの政府に、この切実な真実の声を率直に伝え、NATOや欧米諸国に対して戦闘機やミサイル防衛システムなど最新最強の武器援助を乞い願う道ではなく、即時停戦の決断を迫ることではないだろうか。
同時に、言論・思想統制・弾圧の厳しい条件下にあるロシアの民衆も、この戦争の構図を見極め、何とか心を合わせ勇気を持って、自らの政府に即時侵攻中止を求める時に来ている。
偉大なる思想家トルストイを輩出したロシアの雄大な大地で、歴史的苦悩と常に格闘し続けてきたロシアの民衆も、そしてまた、同じ風土、文化、歴史を共有してきたはらからウクライナの民衆も、非武装・不戦の同じこの思いに立った時、憎しみを越え、相互尊重と連帯の上に、新たな未来へと歩み出すことができるのではないか。
第二次世界大戦後今日に至るまで、米国は、価値観が異なり従わない国に対しては、同盟による軍事ブロックを構築し、経済封鎖と武力によって圧力をかけ、超大国の覇権主義的国際秩序を維持してきた。朝鮮民族の南北分断とその後の朝鮮戦争、そしてベトナム戦争、アフガニスタン・イラク戦争等々を想起するだけでも、その罪の重さと大きさには頷けるはずだ。これが米国をはじめヨーロッパ諸国、そして日本の為政者が口を揃えて盛んに言う「自由と民主主義の普遍的価値に基づく国際秩序」の実態なのである。
長きにわたって続いてきたこの米国単独覇権主義体制は、綻びを見せはじめ、ウクライナ戦争によって、その破綻の道は決定的な段階を迎えようとしている。
私たち日本の国民は、非同盟・中立、非武装・不戦の世界に誇る日本国憲法前文と第九条を持っている。時代の常識からはまったく異なる次元に立つ人生観、価値観、世界観であるが故に、たとえ「ばかの国」と言われようが、世の同調圧力に屈することなく、ウクライナ戦争のさなかにある今こそ、日本国民自らが日本国憲法前文、および第九条の精神を堅持し、日米軍事同盟を排し、永世中立を貫き、自らの国土に非戦・平和の確かな礎となる自然循環型共生の新たな社会を築き、世界に先駆けて民衆の範となることを決意することである。
いよいよ緊急を要する課題となった各国での核兵器・軍備廃絶運動も、非戦・平和の運動も、「生命系の未来社会論」具現化の道である「菜園家族」社会構想※2 の大地に根ざした21世紀のライフスタイルの創造という新たな動きと連動することによってはじめて、単なる抽象レベルでの反対にとどまることなく、一歩踏み込んで生活の内実の変革と結合した多彩で豊かな運動へと発展していくことが可能になるのではないか。そこにこそ、近代を超克する「菜園家族的平和主義」※3 の特長がある。
こうしてはじめて、日本国憲法第九条の「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」の精神は、遠い未来の理念としてではなく、国民生活から切り離すことのできないものとして暮らしの中に深く溶け込み、私たち一人ひとりのまさに血肉となっていく。
それは、1885年、トルストイが「イワンのばか」で描いた、ロシア農民の直耕の暮らしに裏打ちされた、おおらかで素朴な人間性と人々の共生こそが、揺るがぬ平和の基盤を足もとから築いていくというあの深い思想を、21世紀の今に思い起こし、現代の私たち自身の社会に、単なる表面上の模倣ではなく、その真髄をまさに創造的に生かすことではないか。
ウクライナ即時停戦から終結へ、そしてその後の復興の長い苦難の道のりを本当に支援できるのは、私たち自身が生まれ変わる時である。これが私たちにできるウクライナとロシアの民衆へのまことの連帯であり、本物の支援なのである。
※1 拙著『気候変動とパンデミックの時代 生命系の未来社会論』(小貫雅男・伊藤恵子、御茶の水書房、2021年)エピローグ2節で詳述。
※2 前掲拙著の第Ⅱ部「生命系の未来社会論 具現化の道 ―究極の高次自然社会への過程―」で詳述。
※3 拙著『新生「菜園家族」日本 ―東アジア民衆連帯の要(かなめ)―』(小貫・伊藤、本の泉社、2019年)を参照のこと。
2022年4月3日
里山研究庵Nomad
小貫雅男・伊藤恵子
〒522-0321 滋賀県犬上郡多賀町大君ヶ畑(おじがはた)452番地
里山研究庵Nomad
TEL&FAX:0749-47-1920
E-mail:onuki@satoken-nomad.com
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