長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第8章
長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―
第三部 生命系の未来社会論 具現化の道
―究極の高次自然社会への過程―
第8章
「匠商家族」と地方中核都市の形成 ―都市と農村の共進化―
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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第8章
(PDF:561KB、A4用紙13枚分)
1.非農業基盤の家族小経営 ―「匠商(しょうしょう)家族」
ここであらためて確認しておきたいことがある。これまで一般的に「菜園家族」という時、狭義の意味では、週のうち(2+α)日(但し1≦α≦4)は、家族とともに農業基盤である「菜園」の仕事に携わり、残りの(5-α)日はCFP複合社会の資本主義セクターC、または公共セクターPのいずれかの職場に勤務して、応分の現金収入を得ることによって自己補完する形態での家族小経営を指してきた。
そして、広義の意味では、狭義のこの「菜園家族」に加え、非農業部門(工業・製造業や商業・流通・サービスなどの第二次・第三次産業)を基盤とする自己の家族小経営に週(2+α)日携わり、残りの(5-α)日を資本主義セクターC、または公共セクターPのいずれかの職場に勤務するか、あるいは自己の「菜園」に携わることによって自己補完する家族小経営も含めて、これらを総称して「菜園家族」と呼んできた。
ここでは、後者の家族小経営を、狭義の「菜園家族」と区別する必要がある場合に限って、「匠商(しょうしょう)家族」と呼ぶことにする。
非農業基盤の家族小経営の事例
そこで、「匠商家族」とその「なりわいとも」について述べていきたいのであるが、その前に、一般的に言って、非農業基盤に成立する従来の家族小経営にはどんなものがあるのか、思いつくままに若干、例示しておきたい。
食品製造では、豆腐屋さん、お餅屋さん、酒やみそ・しょうゆをつくる小工場、パン屋さん、和菓子屋さん、ケーキ屋さん等々。
呉服屋さん、仕立て屋さん、服飾デザイナーの店。各種多様な家内工場経営から、伝統工芸・手工芸などの工房に至るまで。
電機や機械の修理店。建設業関係では、大工さん、左官屋さん、指物師、畳屋さん、建具屋さん、設計士さん、建築事務所・・・・・。
商業・流通・サービス産業の分野では、日常雑貨店から八百屋さん、魚屋さん、肉屋さん、酒屋さん、お米屋さん、お茶屋さん、果物屋さん、それに靴屋さん、かばん屋さん、傘屋さん、うつわ屋さん、金物屋さん、布団屋さん、布地屋さん、洋品店、メガネ屋さん、時計屋さん、家具屋さん、大工道具や農具を売る店、種苗屋さん、肥料屋さん、花屋さん、楽器屋さん、おもちゃ屋さん、本屋さん、文房具店などの小売商店。食堂、レストラン、料理店、喫茶店、居酒屋等々の飲食店。クリーニング店、理容店、美容院、写真屋さん、印刷屋さん等々のサービス業。
医療関係では、薬局、整骨院、鍼灸院、歯科・眼科・耳鼻科・内科・外科等まちのお医者さん。
文化・芸術の分野では、作家、画家、書家、写真家、映像作家、陶芸家、音楽家、舞踊家、劇団、ギャラリーや小ホール・スタジオの主宰、ジャーナリスト、地域の新聞・情報誌の出版等々、枚挙にいとまがない。
日陰に追い遣られた「匠商家族」と中小・零細企業
周知のように、家族を基盤に、家族構成員の協力によって成り立っているこれら多種多様な零細家族経営は、中小企業とともに、わが国の第二次・第三次産業においてきわめて大きな比重を占め、細やかで優れた技術やサービスを編み出し、日本経済にとって不可欠で重要な役割を果たしてきた。にもかかわらず、大企業との取引関係でも、金融面や税制面でも不公正な扱いを受け、経営悪化に絶えず苦しめられ、今日、その極限状態にまで追いつめられている。
アメリカ発のグローバリゼーションのもと、アメリカ型経営モデルが強引に持ち込まれ、「消費者主権」の美名のもとに「規制緩和」がすすめられ、地方では大資本による郊外型巨大量販店やコンビニエンスストア、ファストフード等のチェーン店が次々と進出し、零細家族経営や中小企業は、破産寸前の苦境に追い込まれている。今や全国地方都市の商店街では、多くの店のシャッターがおろされ、人影もまばらな閑散とした風景が、当たり前のように広がっている。
こうした弱小の経営形態は、アメリカ型「拡大経済」下の市場競争至上主義の効率一辺倒の風潮の中では、たしかにとるに足らない、経済成長には何の役にも立たないものに映るのかもしれない。しかし、零細家族経営によって支えられ成り立っていた地域社会は、1950年代半ばにはじまる高度経済成長期以前にあっては、人間味溢れる「下町」として実に生き生きと息づいていた。
そしてそれは、地域の人間の暮らしを潤し、自然循環型社会にふさわしいゆったりとしたリズムの中で、人々の心を豊かにし、和ませてきた。商店街の流通は緩慢で非効率ではあったけれども、人と人が触れ合い、心の通い合う楽しい暮らしがそこにはあった。時間に急き立てられ、分秒を競うようなせかせかとした暮らしなどは、そこにはなかった。
戦後間もなく、わが国にアメリカ型「拡大経済」が移植され、やがて高度経済成長によってもたらされたものは、市場競争と効率を至上と見なすプラグマティズムの極端なまでに歪められた拝金・拝物主義の薄っぺらな思想であった。人々の心の奥深くまで滲み込んだこの思想は、人間にとって大切な森や農地や川や海、さらにはものづくり・商いの場といった生きる基盤や、人と人とのふれあいをもないがしろにして、農山漁村や都市部のコミュニティを破滅寸前にまで追い込んでしまった。
巨大企業優先の国の「地域開発」政策
巨大企業を優先する政府の利潤第一主義の生産と「地域開発」の政策は、零細家族経営のみならず、国民全体の生命と健康にかかわる生活と環境の問題でも、それらの破壊を全国的な規模で引き起こしてきた。
そして政府は、今なお巨大企業優先の経済・財政政策を続け、多額の国家予算が大型公共事業やIT産業やいわゆる「防衛費」なるものに向けられ、国民生活に直結する社会保障や教育への公的支出は、資本主義諸国の中でも最低水準にある。
しかも、1997年~2007年の10年間で142兆円から220兆円に急増し、さらに2023年には過去最大の539兆円にものぼる内部留保を積み増してきた巨大企業や、証券・金融取引等による巨額の所得に対しては税率を優遇する一方、生活苦や将来不安に悩む庶民には、社会保障の充実のためと称して一貫してさらなる消費税増税を目論むのである。
巨大企業の莫大な内部留保は、この間、派遣労働など非正規の不安定雇用を増大させ、リストラと賃下げ、下請け中小・零細企業に対する単価の切り下げなど、庶民の犠牲のもとに巨額の利潤を上げ、法人税減税など数々の優遇政策のもとで積み増しされていったものである。
それでも、この反国民的な税・財政政策を、今もって変えようとしない。こうした背景には、政治家、特権的官僚、巨大資本のいわゆる政・官・財の鉄のトライアングルが形成され、汚職、腐敗の温床となっている事実があることについては、多くの国民がうすうす感じはじめている。
自然循環型共生をめざす社会変革にとって「菜園家族」と「匠商家族」は車の両輪
私たちが未来にどんな暮らしを望むのかによって、社会のあり方の選択は決まっくる。
21世紀“生命系の未来社会論”具現化の道としての「菜園家族」社会構想は、資源やエネルギーの限界性からも、差し迫った地球環境の限界からも、人道上も、市場競争至上主義のアメリカ型「拡大経済」が許されるものではないとする立場から、持続可能なそれこそ民衆の念願である本物の自然循環型共生社会への転換をめざしている。
そして、何よりも、多くの人々が今、切実に望んでいるものは、人間の心を潤し、子どもの心が健やかに育つ暮らしである。
であるならば、なおさら私たちは、1950年代半ば以降の急速な高度経済成長と昨今のグローバル化の過程で、ないがしろにされ壊滅状態に放置されてきた、こうした零細家族経営や中小企業を今一度見つめ直し、巨大企業優先の今日の社会・経済体系に抗して、かつてのいわば近世の自然循環型共生の人間味溢れる地域社会の再評価のもとに、その再生へと向かわなければならないのではないか。
「菜園家族」社会構想は、まさにこうした課題意識のもとに、本連載の第5章2節「21世紀の未来社会論、そのパラダイムと方法論の革新」で述べた革新的「地域生態学」の理念とその方法を基軸に、人間の暮らしのあり方を根底から問いただし、農山漁村においても、都市部においても、「菜園家族」や今確認してきた「匠商家族」を基盤に地域の再生をめざしている。
「菜園家族」社会構想において、「匠商家族」は、自然循環型共生の社会変革を担うもう一つの大切な主体であり、「菜園家族」と「匠商家族」は、いわば車の両輪ともいうべきものなのである。
2.「匠商家族」とその地域協同組織体「なりわいとも」(アソシエーション)
本連載の第6章6節「草の根民主主義熟成の土壌、地域協同組織体『なりわいとも』の形成過程」では、農業を基盤とする狭義の「菜園家族」を基礎単位に成り立つ「なりわいとも」(アソシエーション)について考えてきたのであるが、この章では、工業や商業・流通・サービス分野、つまり第二次、第三次産業を基盤にした「匠商家族」を基礎単位に成立する「なりわいとも」について考えたい。
狭義の「菜園家族」の「なりわいとも」は、近世の“村”の系譜を引く集落を発展的に継承し、農業を基盤とする性格上、農的・自然的立地条件に大いに規定される。それゆえ、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)の奥山の山間部から下流域の平野部へと、「村なりわいとも」、「町なりわいとも」、「郡なりわいとも」というように、ある意味では地縁的に多重・重層的な地域団粒構造を形づくりながら展開していく。
一方、「匠商家族」の「なりわいとも」は、それと同じではない。むしろ、農業を基盤とする狭義の「菜園家族」の「なりわいとも」とはかなり違った、独自の「なりわいとも」の地域編成の仕方が見られるはずである。
一口に第二次産業の製造業・建設業の分野、第三次産業の商業・流通・サービス業の分野といっても、職種や業種も多種多様である。したがって、「匠商家族」の「なりわいとも」は、職種による職人組合的な「なりわいとも」であったり、同業者組合的な「なりわいとも」であったり、あるいは市街地の様々な商店が地域的・地縁的に組織する商店街組合のような地縁的な「なりわいとも」であったりするであろう。
いずれにせよこれらは、今日の行政区画上の市町村の地理的範囲内で、職人組合的な「町・村なりわいとも」や、同業者組合的な「町・村なりわいとも」、あるいは商店街組合的な「町なりわいとも」としてそれぞれ形成されてくる。
そして、それらを基盤にして、さらにそれぞれの上位に、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)全域(郡)の規模で、「郡なりわいとも」が形成されることになる。この「匠商家族」の「郡なりわいとも」は、対外的にも大きな力を発揮することが可能になるであろう。
巨大企業の谷間であえぐ「匠・商」の零細家族経営だけでなく、中小企業についても、そのおかれている状況は同じである。森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)の自然資源を生かし、地域住民に密着した地場産業の担い手として、中小企業を育成していかなければならない。「匠・商」の零細家族経営と中小企業の両者が、同じ森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)にあって連携を強めることによって、相互の発展が可能になってくる。
中小企業の「なりわいとも」への参加をどう位置づけ、両者がいかに協力し合っていくのか。この問題は、今後研究すべき重要な課題として残されている。
放置された巨大資本の専横。それを許してきたこの国の理不尽な政策。こうした中で苦しみ喘ぎながらも、人々は自らの生活の苦しみと、ますます悪化する地球環境に直面して、ようやく本当の原因がどこにあるのかに気づきはじめた。最後の土壇場に追いつめられながらも、何とか足を踏ん張り反転への道を探ろうとしている。
人間の欲望を手品師のように操りもてあそぶ、市場原理至上主義「拡大経済」という得体の知れない巨大な怪物に抗して、自らが築く自らの新たな体系を模索していかなければならない。
そもそも「地域」にとって都市とは何か
ところで、本来都市とは、ある一定の地域圏(エリア)内にあって政治・経済・文化・教育の中核的機能を果たし、人口の集中したその区域のみならず、地域圏(エリア)全域にとっても重要な役割を担うものである。
都市は、古代ギリシャ・ローマにおいては国家の形態をもち、中世ヨーロッパではギルド的産業を基礎として、時には自由都市となり、近代資本主義の勃興とともに発達してきた。
こうした都市の発展の論理には、一定の普遍性が認められる。特定の国や地域の都市の考察においても、この都市の普遍的論理は注目しておかなければならない。
ギルドはよく知られているように、中世ヨーロッパの同業者組合である。封建的貴族領主や絶対王権に対抗して、同業の発達を目的に成立した。まず商人ギルドが生まれ、手工業者ギルドが派生する。こうして台頭してきた新興の勢力は、都市の経済的・政治的実権をも掌握するようになり、中世都市はギルドによって運営されるに至る。
しかし、近代資本主義の勃興によって、ギルド的産業のシステムは衰退し、都市と農村の連携から地域のあり方までが激変していった。それは、まさに中世・近世によって培われ高度に円熟した、循環型社会のシステムそのものの衰退によるものであった。
それでは私たちの現代は、歴史的にどんな位置に立たされているのであろうか。それは歴史の長いスパンで考えるならば、まぎれもなくこの中世・近世の循環型社会の衰退過程の延長線上にあると言わなければならない。
今日の市場原理至上主義アメリカ型「拡大経済」は、結局、この延長線上にあって、商業や工業における零細家族経営から弱小な中小企業に至るまで、ありとあらゆる小さきものたちを破壊していくのである。
企業、銀行などあらゆる経済組織は、再編統合を繰り返しながら巨大化の道を突き進み、大が小を従属させる寡頭支配の論理が貫徹していく。東京など巨大都市に本社をおく巨大企業は、周縁の地方にもそのネットワークを広げ、地方経済を牛耳ることになる。地方はますます自立性を失い、中央への従属的位置に甘んじざるを得ない事態にまで追い詰められていく。
「匠商家族のなりわいとも」の形成は歴史の必然である
こうした流れに抗して、「菜園家族」社会構想は地域の再生をめざす。そうであるならば、中世や近世の商人・手工業者が、封建的貴族領主や絶対的王権に対抗して、自らの同業の自衛のために同業者組合ギルドをつくったように、今日の市場原理至上主義アメリカ型「拡大経済」下の巨大企業や巨大資本に対峙して、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)内における商業・手工業の零細家族経営が「匠商家族」という新しいタイプの家族小経営に生まれ変わり、それを基盤に「匠商家族のなりわいとも」を結成するのは、ある意味では歴史の必然であると言ってもいいのかもしれない。
ギルドは中世および近世の循環型社会の中にあって、きわめて有意義的かつ適合的に機能していた。「菜園家族」社会構想が近世の円熟した循環型社会への回帰の側面を持つ以上、「匠商家族のなりわいとも」の生成は、当然の帰結と言えよう。
そして、巨大化の道を突き進むグローバル経済が席捲する今、この「匠商家族のなりわいとも」が、前近代の中世ギルド的な“協同性”に加え、資本主義に対抗して登場した近代的協同組合(コープラティブ・ソサエティ)の性格をも合わせもつ、21世紀の新しいタイプの都市型協同組織体としてあらわれてくるのも、歴史の必然と言わなければならない。
地方中小都市の未来は、こうした「匠商家族のなりわいとも」を、主にその市街地にいかに隈なく組織し、編成するかにかかっている。
肝心なことは、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)全域を視野に入れて、この「匠商家族のなりわいとも」と、森林地帯に展開する“森”の「菜園家族のなりわいとも」や、田園地帯に広がる“野”の「菜園家族のなりわいとも」、海辺に息づく“海”の「菜園家族のなりわいとも」との連携を強化していくことである。そして、これらによる柔軟にして強靭な「なりわいとも」ネットワークをその全域に張りめぐらしていくことである。こうした基盤の上に、“森”と“野”と“海”と“街(まち)”をめぐるヒトとモノと情報の交流の循環がはじまる。
こうしてはじめて、市場原理至上主義アメリカ型「拡大経済」に対峙して、相対的に自立した抗市場免疫のひとつのまとまりある自然循環型共生の森と海を結ぶ流域地域経済圏の土台が、徐々に築きあげられ熟成していくのである。
「なりわいとも」と森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)の中核都市の形成
森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)が相対的に自立自足度の高い経済圏として成立するための前提条件について、地域協同組織体「なりわいとも」(アソシエーション)と中核都市との関連で、ここでもう少しだけ触れておきたい。
まず、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)(おおむね今日の行政区画、郡の地理的範囲に相当する)内の基礎自治体である市町村が連携して、長期的展望に立った自らの流域地域圏(エリア)の基本構想を立案し、それを計画的に実行していく体制を整える必要がある。そして、今日の税制のあり方を抜本的に改革し、地方自治体の財政自治権を確立し、自治体が自らの判断で的確な地域内公共投資を計画的におこなえるような、地域政策投資のシステムを構築しなければならない。
また、相対的に自立自足度の高い経済圏が成立するためには、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)内でのモノやカネやヒトの流通・交流の循環の持続性が大切になってくる。そのためにはまず、流域地域圏(エリア)内での生産と消費の自給自足度、つまり地産地消の水準が可能な限り高められなければならない。
そして、地域融資・地域投資の新しい形態として注目されているコミュニティ・バンクの創設や地域通貨の導入などによって、自立的な経済圏を支える経済システムを整えていく必要がある。このコミュニティ・バンクは、土地や建物を担保にお金を貸す従来型のバンクではなく、事業性や地域への貢献度から判断してお金を貸す、本当の意味での地域のための金融機関として確立されていかなければならない。
コミュニティ・バンクの創設とその意義
今日では、地域住民一人一人の大切な預貯金は、最終的には大手の都市銀行に吸いあげられ、都市銀行にとって投資効率のよい、流域地域圏(エリア)外の重化学工業やハイテク産業や流通業など第二次・第三次産業の「成長分野」に融資されている。農業や林業や漁業、零細家族経営や中小企業のようなもともと本質的に生産性の低い、しかしながら流域地域圏(エリア)の自然環境や人間の生命にとって直接的にもっとも大切な分野には、なかなか投資されないのが実情である。
まさにこれは丸裸で露骨な市場原理によるもので、こうした状況を放置しておくならば、いつまでたっても地域経済を建て直すことはできない。
ヨーロッパでは、日本とはかなり事情が違うようである。イギリスやオランダやドイツでは、経済的利益だけではなく、環境、社会、倫理的側面を重視して活動する金融機関「ソーシャル・バンク」が存在し、主に個人から資金を預かり、社会的な企業やプロジェクト、チャリティ団体やNPOなどに投融資をおこない、社会的にも重要な役割を果たしている。
こうした金融機関では、通常の預金や融資、投資信託などとは異なり、資金提供者が重視する価値を実現するための仕組みが金融商品や資金の流れに組み込まれている。地域づくりや環境問題においても、相互扶助を基本理念に今日的な「意志あるお金」の流れの活性化に貢献している。
このようなソーシャル・バンクが存在している要因はいろいろ考えられるが、歴史的には、イギリス産業革命以来の協同組合運動発祥の地としての伝統の裾野の広さががあげられるであろう。
日本では、地方に信用組合や信用金庫があるにはあるが、実際には金融庁の統括のもとにあって、大銀行と同じような規制で縛られており、小規模の事業に対する融資や補助金の斡旋がきわめて不十分であると言わざるをえない。
とはいえ、過去において、金融の相互扶助の伝統が皆無であったというわけではない。前近代の循環型社会において、特に室町時代から江戸時代にかけて各地の農村でさかんであったといわれている「頼母子講(たのもしこう)」は、相互扶助的な金融組合であった。組合員が一定の掛け金をして、一定の期日にくじまたは入札によって所定の金額を順次、組合員に融通する仕組みだったといわれている。
今日の中央集権的、寡頭金融支配のもとでは、「菜園家族」や「匠商家族」が森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)を舞台に、新しい相互扶助の精神にもとづく地域協同組織体「なりわいとも」(アソシエーション)を結成し、流域地域圏(エリア)の再生をめざして活動を開始しようとしても、その芽はことごとく摘まれてしまうであろう。
原初的な相互扶助の精神に支えられた金融機関の伝統が日本にもあったことを考える時、21世紀の未来に向けて、地域における新しい金融のあり方を模索し、その可能性をもっともっと広げていくべきである。前近代に胚胎していた伝統的精神を生かし、ヨーロッパの優れた側面を取り入れながら、「菜園家族」社会構想独自の金融システムを地域に確立して、顔の見える相互扶助の地域経済をつくっていかなければならない。
コミュニティ・バンクのような比較的大きな財政的支援を必要とする金融機関の創設については、流域地域圏(エリア)の自治体だけではなく、広域地域圏すなわち都道府県レベルとの連携共同による支援体制が必要である。そのシステムが確立されれば、巨大都市銀行に頼ることなく、住民一人一人の善意の小さな財力を、新しい独自の金融・通貨システムを通じて地域に還流させることが可能になるであろう。住民自らが新たにつくり出したこの新しい金融・通貨システムを通じて、住民が自らの地域経済の自立のために、ささやかながらも常時貢献する道が開かれていくことになる。
森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)内に創設されるコミュニティ・バンクにとって大切なことは、活動の理念の明確化である。つまり、「菜園家族」社会構想に基づいて、流域地域圏(エリア)を「菜園家族」基調のCFP複合社会を経て、自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)に再生させていく活動の支援に徹するという理念である。
その上で、融資先の明確化と持続的な支援活動が重要になる。コミュニティ・バンクは、こうした零細家族経営や中小の事業を支援することによって、地域のきめ細やかな雇用づくりにも寄与する。
このようなコミュニティ・バンクの活動は、本連載の第10章で後述するCSSK(国および都道府県レベルに創設される「CO2削減(C)と菜園家族(S)創出の促進(S)機構(K)」)との連携のもとで相互補完しつつ、両者それぞれの特性を生かしながら進められていくことになるだろう。
もちろん、コミュニティ・バンクの創設とその運営、そしてそのありようは、「労」「農」人格一体融合の「菜園家族」を基調とするCFP複合社会がどのように展開し、円熟していくかによって変わっていく。こうしたコミュニティ・バンクを強化し、CFP複合社会を発展させていくことによって、資本主義セクターC内の従来型の巨大都市銀行も、次第に自然循環型共生社会に適合したものに変質せざるを得なくなるであろう。
地産地消の確立と新たな物流・交通システムの整備
さて、物流に関して言えば、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)内市町村の中心街の各所に定期的な青空市場を設置するなど、近郊農山漁村に散在する中規模専業農家の生産する作物や「菜園家族」の余剰農産物を流通させる新たなシステムをつくり出す必要がある。
日本は先進諸国の中でも、長距離輸送による食糧・木材供給への依存度が異常なまでに高い国である。地産地消システムの確立は、フード・マイレージ、ウッド・マイレージの観点から、CO2排出量削減にもおおいに寄与するであろう。
中規模専業農家に加え、“森”と“野”と“海”の「菜園家族のなりわいとも」、および「匠商家族のなりわいとも」は、こうしたシステムづくりを担う重要な役割を果たす。同時に、外部資本による郊外の巨大量販店に対しては次第に規制を強め、零細家族経営や中小業者を守り、育成していく条件を整えることが必要である。
また、流通システムの環境整備の点からは、新しい交通体系の確立が大切である。日本の伝統的旧市街や商店街が集中する都市中心部では、クルマ社会に対抗する交通システムの整備がきわめて遅れている。郊外型巨大量販店の出店を許している客観的条件として、この都市中心部における交通システムの整備の遅れが指摘されてきた。
中核都市の中心部における拠点駐車場の設置と、これにつながる自転車・歩道網の整備などが重要な課題になる。同時に、中心市街地においても、近隣の農山漁村地域と結ぶ交通網においても、公共交通機関のあり方をあらためて見直さなければならない。
燃料についても、化石燃料に代替する、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)内の自然資源を活かしたエネルギーを研究開発し、人々の暮らしを支え、環境の時代にふさわしい新しい交通体系を確立する必要がある。
こうした自然循環型の農村・都市計画における流通・交通体系の研究開発の分野でも、本連載の第10章で後述するCSSKとの連携の強化によって、いっそうの成果をあげることができるにちがいない。
森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)に自立的な経済圏を確立していく上で、中核都市の都市機能の充実の重要性をもう一度確認しておきたい。
城下町や門前町としての歴史的景観の保全、文化・芸術・教育・医療・社会福祉機能の充実、さらには商業・業務機能と調和した都市居住空間の整備を重視し、かつ市街地内においても「菜園」をきめ細やかに配置し、緑豊かな田園都市の名にふさわしい風格あるまちづくりをめざさなければならない。
それは、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)全域に広がる“森”と“野”と“海”と“街(まち)”の「菜園家族」や「匠商家族」のネットワークの要(かなめ)としての都市であり、森と海を結ぶ持続的な流域循環の中軸としての機能を担う、新しい時代の地方都市の姿でもある。
3.「なりわいとも」の歴史的性格とその意義
団粒構造のふかふかとした土が、作物の生育にとって快適で優れた土壌であるのと同様に、「菜園家族」や「匠商家族」を基礎単位に「なりわいとも」(アソシエーション)が形成され、多重・重層的な団粒構造に熟成された地域社会は、人間一人ひとりにとっても豊かで理想的な社会であるはずだ。
そこでは、人間の様々な個性が生かされ、まさに多重・重層的な人間活動が促される。こうした人間活動の成果が、養分として「地域」という土壌に蓄積され、それによって地域社会は、より豊かなものに熟成されていく。団粒構造の滋味豊かな土を思い起こすだけでも、そのことは実に理に適っていると頷けるはずだ。
森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)では、本連載の第6章6節でも触れたように、多重・重層的な地域団粒構造の各次元にあらわれる「菜園家族」、「くみなりわいとも」、「村なりわいとも」、「町なりわいとも」、「郡なりわいとも」などの地域協同組織体が、それぞれの次元にあって、自律的、重層的に機能し、その結果、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)全体として人間の多次元的で多様な活動が活性化され、それにともなって創造性あふれる“小さな技術”(本連載の第11章で後述)が絶え間なく生み出されていく。
その結果、人間の側からの自然に対する働きかけが、流域地域圏(エリア)の総体として極めてきめ細やかなものになり、自然を無駄なく有効に活用することが可能になってくる。活動の分野も、農林漁業や畜産に限らず、手工業・手工芸の分野から、さらには教育・文化・芸術に至るまで、人間の幅広い活動が豊かに展開されていくのである。
上から強引にすすめられた社会・経済・文化・教育等々におよぶいわゆる「小泉構造改革」、「アベノミクス」、そして岸田政権の「新しい資本主義」、これを継承するなりふり構わぬ露骨な軍拡路線の石破政権による嘘で固めた「地方創生」、さらには「日本維新の会」の「地域主権改革」や「大阪都」構想、カジノと一体化した大阪・関西万博なるものも、やがて、薄っぺらなまやかしのまがいものであることが白日の下に晒されることになるであろう。
この「地方創生」や「地域主権改革」なるものは、むしろ国民の中に経済・教育・文化の格差を広げ、弱肉強食の競争を煽り、人間不信とモラルの低下をますます強め、財界主導の従来型巨大プロジェクトへのヒト・モノ・カネの集中と引き換えに、地域の衰退にさらなる拍車をかけていく。
人間を支え、人間を育む基礎的「地域」の内実の下からの根本的変革なしには、経済の変革も、政治の変革も、教育・文化の変革も、徒労に終わらざるをえない。経済の源泉は、まぎれもなく草の根の「人間」であり、「家族」であり、「地域」である。そして民主主義の問題は、究極において人格の変革の問題であり、人格を育むものは、人間の生産と暮らしの場である「家族」と広大な「地域」である。
したがって、この「家族」と「地域」を時間がかかってもどう建て直し、どう熟成させていくかにすべてがかかっていると言わなければならない。
「菜園家族」の中で育まれる夫婦や親子や兄弟への愛、ここからはじまる人間と人間の良質な関係、これが「くみなりわいとも」や「村なりわいとも」へ、さらには、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)に形成される「郡なりわいとも」から、県レベルの「くになりわいとも」へと拡延され、地域社会全体に広がっていく。人間性に深く根ざした人への思いやり、お互いが尊重し合い、相互に助け合う精神、つまり社会的「共感能力」(慈しむ心)が培われていくのである。
「地域」における“もの”の再生産と“いのち”の再生産の安定した循環の中に身をおき、親から子へ、子から孫へとつながる永続性を肌で感じ、精神の充足が自覚される時、人間は心底から幸せを実感する。そして、やがて「地域」に新しい精神の秩序が形づくられていく。これこそが、精神の伝統というべきものではないだろうか。
森と海を結ぶ流域循環型の地域形成は、ただ単に経済再建だけが目的ではない。こうした「地域」熟成の中から、市場原理至上主義「拡大経済」社会にはみられなかった地域独自の新たな生活様式が確立され、民衆の新しい倫理や思想が、そして文化や芸術が生み出されていく。
今日の精神の荒廃は、こうした大地に根ざした独自の文化や精神を育む地域社会の基盤を失い、それを新たに再生し得ずにいることと関連している。今、私たちにとって大切なことは、時間がかかっても、ゆっくり着実にこうした「家族」と「地域」の再建からはじめることであり、上からの権力的「地方創生」や「地域主権改革」などではない。
前近代の基盤の上に築く新たな「協同の思想」
19世紀前半のイギリスにおいて、不条理でむき出しの初期資本主義の重圧のもと、ロバート・オウエンの思想と彼のコミュニティ実験の経験の上に、「一人は万人のために、万人は一人のために」を合言葉に高揚した協同組合(コープラティブ・ソサエティ)運動。
資本主義のもとで、私的利益を追求する企業社会とは別の、もう一つの経済システムへと人々の心を駆り立てたものは、「協同の思想」によって、自らと仲間の“いのち”と“暮らし”を守ろうとする民衆の自衛精神であった。
したがって、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)に新たに築かれる「郡なりわいとも」は、自然発生的なものというよりも、むしろ週休(2+α)日制のワークシェアリング(但し1≦α≦4)によって生成される、近代資本主義超克の「菜園家族」を拠りどころに、人間の自覚的意識に基づいてなされる地域住民、市民主体の高次の人間的営為であると言わなければならない。
それだけに、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)全域に形成される「郡なりわいとも」には、困難が予想される。19世紀の「協同の思想」の先駆者たちの悲願は、20世紀において無惨にも打ち砕かれ、その達成は21世紀の私たちに未完のまま残されている。
引き継がれ残されたこの課題を解決し、成功へと導く鍵は、すでに述べてきたように、現代賃金労働者(サラリーマン)と生産手段との再結合によって、「賃金労働者」と「農民」という二重の人格を一体的に融合し備えた、21世紀独自の新たな人間の社会的生存形態と、その家族小経営としての「菜園家族」を創出することであり、それに基づく協同組織体「なりわいとも」(アソシエーション)によって、「地域」を再編することである。
巨大資本の追求する私的利益と、地域住民・市民社会の公的利益との乖離が大きくなればなるほど、もう一つの経済システムの可能性をもとめて、多くの試みがなされるのは当然の成り行きであろう。そして、それは歴史の必然でもある。むき出しの私的欲求がまかり通る時、資本主義内部に抗市場免疫に優れた民衆の自衛組織、対抗主体としての「菜園家族」と「匠商家族」が生まれ、その地域協同組織体「なりわいとも」が台頭してくるのもまた、歴史の必然の帰結というべきである。
21世紀を迎え、現代世界はあまりにも私的利益と公的利益の乖離が大きくなり、解決不能の状況に陥っている。180年前のイギリスとはまた違った意味で、今、新たに本格的な「協同の思想」到来の客観的条件が熟しつつある。
前章と本章で述べてきた、多重・重層的地域団粒構造の各次元に形成される「なりわいとも」、そのなかでも基軸的地域協同組織体として要の(かなめ)位置にある「村なりわいとも」、そして森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)全域を地理的範囲に形成される「郡なりわいとも」、さらには非農業基盤の「匠商家族」とその「なりわいとも」。
これらすべては、まさにこうした世界の客観的状況と歴史的経験を背景に、前近代的なるものと近代的なるものとの融合によって、新たなる協同の社会、つまり「菜園家族」を基調とする抗市場免疫のCFP複合社会を経て、大地に根ざしたいのち輝く自律的な自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)を築く試みなのである※ 。
つまりそれは、近世の“村”や地域団粒構造といった前近代的な伝統の基盤の上に、「協同の思想」という近代の成果を甦らせ融合させることによって、21世紀にむけて新たな「地域の思想」を構築しようとする人間的営為でもある。
これは決して特殊な地域の特殊な事柄ではなく、人類史上、人々によって連綿として続けられてきた、そして今でも続けられている、普遍的価値に基づく未完の壮大な実験を21世紀において何とか成就させんとする、人間の飽くなき試みなのである。
※ 本連載のエピローグ「高次自然社会への道」で後述。
◆「いのち輝く共生の大地」第8章の引用・参考文献◆
柳田國男『明治大正史 世相篇』講談社学術文庫、1993年
河原温『中世ヨーロッパの都市世界』(世界史リブレット23)山川出版社、1996年
松村善四郎・中川雄一郎『協同組合の思想と理論』日本経済評論社、1985年
祖田修『都市と農村の結合』大明堂、1997年
金岡良太郎『エコバンク』北斗出版、1996年
加藤敏春『エコマネー』日本経済評論社、1998年
井上有弘「欧州ソーシャル・バンクの現状と信用金庫への示唆」『金融調査情報』19―11、信金中央金庫総合研究所、2008年3月
蔦谷栄一『協同組合の時代と農協の役割』家の光協会、2010年
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2024年11月22日
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