『菜園家族レボリューション ―日本国憲法、究極の具現化―』を読んでのお便り(橋本 智さんより)
2018年3月5日に、橋本 智さん(栃木県下野市在住、栃木県立宇都宮白楊高等学校 農場長)から、拙著『菜園家族レボリューション ―日本国憲法、究極の具現化―』(本の泉社、2018年2月刊)を読んでのお便りが届きました。
以下に掲載いたします。末尾に橋本先生のご紹介を添えました。
『菜園家族レボリューション ―日本国憲法、究極の具現化―』を読んで
橋本 智(栃木県下野市在住)
新刊『菜園家族レボリューション ―日本国憲法、究極の具現化―』(本の泉社)、一気に読ませていただきました。
「“菜園家族”を基調とするCFP複合社会の構築と“森と海を結ぶ流域地域圏”の再生」への道について、私自身が現在農業高校に勤務していますので、ご著書を読みながら私なりに以下のようなことを考えてみました。
戦前期の(旧制)中学校および農学校は、都市および農村の一部エリート層のため、また「忠良なる臣民」を育成するための中等教育であり、教育内容は国民大衆のニーズに即した内容ではありませんでした。敗戦後の一連の改革のなかで、日本国憲法制定とともにすすめられた教育改革では、民主的な社会を担う国民大衆のための教育を目指し「普通教育」と「専門(職業)教育」を統合した(新制)高等学校を、全国あまねく創設しました。このうち(新制)農業高校は、戦後の農地改革・農業協同組合の創設など農村の民主化の定着を図り「考える農民(もの言わぬ農民ではない)」の育成を目指しました。当時の高校農業教育は、自立的・自給的な農業経営者(田畑+小規模畜産+里山など地域資源を活用した循環型農業)の育成を目指すものでした。
しかし戦後改革を否定し再軍備を目指す「逆コース」や、高度経済成長にともなう財界の「期待すべき人間像」育成の要請のなかで、戦後民主教育の原点は忘れられ、新しい形で「階級社会」復活の動きがはかられて、普通高校(大学受験準備教育に特化)と職業高校に階層化され、農業高校は言わば受験競争の敗者が進学する学校に位置付けられました。農業・農村も農業基本法による選択的拡大農政により階層分化させられ、「経済効率の悪い」自給的農業は立ち行かなくなり、多くの農家は都市の労働者としてつぎつぎと脱農していき、生き残った農家には輸入飼料や農薬・化学肥料をふんだんに使った農業の近代化・規模拡大が政策的にすすめられました。農業就業者の激減とともに、農業高校もどんどん減らされていきました。
しかし経済効率性一辺倒の「近代化農政」が行き詰まり、行くところまで行きついた先、これからの新しい農業・農村をイメージすると、戦後農政や農業教育改革の初心であった自立的・自給的な農業経営者の育成に立ち返るのではないかと思います。
“菜園家族”は、私の中では、今全国各地の農村に還流しつつある、都会からの帰農家族や、有機農業を中心とした農業経営者、半農半Xによる地域活性化のイメージと重なります。農業高校は、かつては農業の単作化・施設化といった近代化農政のトップランナー的役割を担いましたが、今入学してくる生徒の一定程度は、受験競争・偏差値のための普通教育を忌避し、動物や農作業に漠然とあこがれてやって来た非農家の子供たちです。将来、彼らが“菜園家族”となって、豊かな農村社会を築いていくことを夢見たいと思います。
日本経済における農業の相対的地位の低下とともに農業高校の数は激減し、学校数は現在全国で3百あまりです。これは1都道府県あたりだと5校~10校くらいで、だいたい1郡1校ぐらいになります。“森と海を結ぶ流域地域圏”は、それぞれの流域水系が地域を葉脈・血液のように網羅すると考えると、旧郡単位に近い概念ではないかと思います。それぞれの流域地域圏にかろうじて1つずつ残った農業高校が、将来は新しい農村社会を形成する力に寄与できるのではないか、そんなことを夢想します。
お近くなのでご存知かもしれませんが、三重県伊賀市にある私立の「愛農学園農業高校」のように有機農業の実践で全国から入学者を集めている農業高校もあります。「有名(偏差値の高い)普通科高校→有名大学→有名企業」という教育の高度経済成長モデルが破綻した今、かつて「(偏差値の低い)底辺校」と蔑まれた農業高校が再び脚光を浴びつつあります。教育も農業も地域も下から、今の為政者からは想像もつかない底辺から生まれ変わっていくのかもしれません。私は『菜園家族物語 ―子どもに伝える未来への夢―』(日本経済評論社、2006年)以来、ご著書をずっと読まさせていただき、勇気を頂いてまいりました。エーリッヒ・フロムの『希望の革命』の中には、「まだ生まれぬものの真実性を信ずるものにとっては、ノアの箱舟に帰ってきたハトがくわえた一枚のオリーブの葉も洪水の終わりを告げるしるしとなる」という美しい文章があります。私どもの農業の営み、教育の営みは、巨大なグローバリズムの洪水の中では全く取るに足らないものです。この意味では現実の変化の兆しは一枚のオリーブの葉なのかもしれませんが、希望を夢見るのに十分な変化だと思います。
わが家の双子の娘たちは19歳になりました。このうち一人は農業にあこがれて宇都宮大学農学部に進学し、春休み中は北海道の酪農家で研修しています。もう一人は自転車競技をやりたくて伊豆の日本競輪学校に入り今月卒業して帰郷し、ゆくゆくは競輪選手になる予定です。以前子供たちに絵本を送って頂いたときは彼女らはまだ小学生でしたので、年月のたつのは本当に早いものです。・・・
★ 橋本 智さんは、1967年埼玉県生まれ。宇都宮大学農学部で暉峻衆三教授(農業経済学)に学んだ後、一貫して農業に基づく視点を大切に、栃木県内の高校で教育に携わってこられました。ご自宅でもご夫婦で農作業に勤しみ、自家製の味噌づくりなどに丹精を込め、農ある暮らしを実践されています。
お便りにあるように、10年ほど前、拙著を読まれたのをきっかけに私たちとの交流がはじまり、年末、当時まだ小さかった双子の娘さんたちを連れて、夜行列車に乗って彦根まで行きたい、とのご連絡がありました。あいにく当地は吹雪となり、残念ながら実現はしなかったものの、そのご意志の強さにたいへん感銘した思い出があります。
ご自身でまとめられた著書『全国農業博物館・資料館ガイド』(筑波書房、2002年)や、地元の下野新聞が創刊130周年記念として出版した『予は下野の百姓なり ―田中正造と足尾鉱毒事件 新聞でみる公害の原点―』(下野新聞社、2008年刊)など、貴重な資料を送って下さったこともありました。
その後、程なくして2011年3・11フクシマ原発事故が発生。本州で一番の酪農地帯である栃木県北部の那須地域も、大きな放射能被害を受けてしまいました。橋本先生も、当時勤務されていた高校の牧草地の復旧にご奮闘されることになったのでした。
足尾鉱毒事件に象徴される明治の富国強兵路線を起点に、戦後も高度経済成長期以来、一貫して近代化の犠牲となり、衰退を余儀なくされてきた農山村。3・11の大惨事を経た今もなおその延長線上にあって、グローバル市場競争と東京一極集中の経済構造のもと、ついには「地方消滅」とさえ言われる深刻な事態に瀕しています。一方の都市生活も厳しさを増しています。
こうした中で、農という人間の営みの原点を見失うことなく、栃木という具体的な1つの地域に根ざし、農業高校という教育の現場を、21世紀にふさわしい価値に基づく新たな未来を足もとから築き上げていくかけがえのない拠点として捉え、地道な取り組みを続けておられる橋本先生の信念は、全国津々浦々の農山漁村の“小さな学校”に、明日に向かってすすむ大きな目標と希望を呼び起こして下さるように思えてなりません。