アベノミクスの積極的平和主義の欺瞞性 ― 対峙する「菜園家族」的平和主義 ―

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「積極的平和主義の欺瞞性」(PDF:391KB、A4用紙13枚分)

– 論説 –

アベノミクスの 積極的平和主義の欺瞞性

― 対峙する「菜園家族」的平和主義 ―

アベノミクスが目論む「積極的平和主義」とは一体何なのか。この十数年来、私たちは「菜園家族」構想を考えてきたのであるが、今、欺瞞に充ち満ちたこの「積極的平和主義」なるものの台頭を前に、いよいよ「菜園家族」的平和主義を真剣に対峙しなければならない時に来ているとの思い強くしている。

今日ますます強まる反動的潮流のただ中にあって、「菜園家族」的平和主義こそが、日本国憲法が謳う「平和主義」、「基本的人権(生存権を含む)の尊重」、「主権在民」の三原則の精神をこの日本社会に具現する、今日考えられるもっとも現実的でしかも確かな方法であり、しかも未来への道筋を具体的に明示しうるものではないかと思っている。

なかんずく「平和主義」についてもう少し敷衍して述べるならば、この「菜園家族」的平和主義は、これまで人間社会に宿命的とまで思われてきた戦争への衝動を単に緩和するだけにとどまらない。「菜園家族」の社会構想では、根なし草同然となった現代賃金労働者(サラリーマン)家族に、生きるに最低限必要な生産手段(農地や生産用具など)を再び取り戻し、社会の基礎単位である家族を抗市場免疫の優れた体質に変革していく。こうして生まれる「菜園家族」が社会の基盤をあまねく構成することによって、熾烈な市場競争は社会の内部から自律的に抑制されていくことになる。資源・エネルギーおよび商品市場の地球規模での際限なき獲得競争という戦争への衝動の主要因は、こうして社会のおおもとからしだいに除去されていく。その結果、戦争への衝動はしだいに抑えられ、他者および他国との平和的共存・共生が、その社会の本質上おのずと実現されていくのではないか。

21世紀こそ、戦争のない平和な世界を実現していくためにも、人間の社会的生存形態を根本から変えることによって、18世紀産業革命以来の近代社会のあり方そのものを超克するという、こうした根源的な社会変革こそが待たれている。そうならなければ、もはや人類には未来はないであろう。
こうした主旨から、この小文を書くことにした。

加速化するアベノミクス主導の解釈改憲の動き
安倍首相は昨2013年春、憲法を変える手続きを定めた第96条を緩め、それが「裏口入学」と反発を浴びると断念。今年は、解釈改憲という違うやり方で再び憲法に手をつけようというのである。条文をいじらずに第9条の解釈を変更する閣議決定によって、これまで行使できないとされてきた集団的自衛権を使えるようにするという。これだと国会の議決すらせずに済むという魂胆だ。

その結果はどうなるのか。日本国憲法の平和主義は文字面(もじづら)の形だけは残るが、第9条の核心は破壊されることは明らかだ。憲法第99条に「・・・国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と定められた自らの立場をかなぐり捨て、きわめて「私的な情念」に支えられたこの執拗さは、一体どこから出てくるのであろうか。

自分にとって不都合な国に対しては敵意をあらわにし、「仲間」に対しては「自由と民主主義の価値観を共有する必然のパートナー」と持ち上げ、結束を促す。小中学生のいじめを首謀する金持ち良家の坊ちゃんの幼稚さと、どこが違うというのであろうか。ずる賢さだけは長けているから、始末におえない。言っていることとやっていることの違いに、ご本人は気づかないのであろうか。果たしてこの人は、ご本人が言うように本当に民主主義の信奉者なのであろうか。

安倍首相は、今年2014年4月末からの欧州6ヵ国歴訪中、各国に持論の「積極的平和主義」への理解を求め、強調したのは中国の脅威であった。「中国の軍事動向については我が国を含む国際社会の懸念事項」と中国を名指しで批判しつつ、5月7日の内外記者会見では「私の対話のドアは常にオープンだ」と、いつもながらの慇懃無礼な常套句を繰り返した。この人の言動の不一致さと一貫性のなさには、どんな心理が働いているのであろうか。

憲法記念日に当たる5月3日付の朝日新聞のオピニオン面への寄稿「今この国はどこにあるのか」で、少年時代はずっと戦争の中にいたという81歳の作家小林信彦さんは、こう述べている。「経済から戦争が望まれるようになるのは、アメリカの例を見ればすぐわかる。軍事ビジネスの方向に進むために、安倍首相は異様なほど、テレビの画面に笑顔をさらす」と。

笑みを浮かべながら、ある時は傲慢に「積極的平和主義」などというダマシのレトリックを用いては、屁理屈をぺらぺらと並べ立てる。なんとまあ卑怯千万なことか。タカの本性を隠蔽しようとでもいうのであろうか。はたまた余裕の笑みを浮かべ国民に安心を与え、危険きわまりない道へこっそりと誘い込もうとでもいうのであろうか。

このように考えるのは、偏見から来る思い過ごしかとも思ったが、小林信彦さんの先の記事を読んで、必ずしもそうではないことが分かってきた。今、ようやく多くの人々が、あの笑顔に隠された狡猾さと不気味さに気づきはじめたようだ。

あらためて日本国憲法を素直に読みたい
為政者が国民に気づかれずにことを隠密に運ぶずる賢さは、今にはじまったことではない。それは為政者の好む古くて新しい手口なのである。このことは、少なくとも身近な近・現代史から学びとることのできる教訓であったはずだ。その意味でも、特に今日アジア諸国民とわが国との間で争点となっている歴史認識の問題は決して避けてはならないし、おろそかにしてはならない。今あらためて、普通に生きている庶民である生活者としての私たち個々の人間にとって、あれこれのつまらない大義名分はいいとして、戦争とは一体何なのか、根源的に捉え直す時に来ている。

戦争を侵略のためだと言って戦争を仕掛けた為政者はいたためしがないし、これからもないであろう。決まってもっともらしい理屈をいろいろと捏ねる。国家の平和と繁栄のため、国民のいのちと平和な暮らしを守るため、自衛のため、国際平和のために戦うなどと平然と言う。はたまた戦争を抑止するために戦力を備える必要がある、とも言うのである。これは、憲法第9条によって戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認の制約の下にある、特にわが国の為政者が好んで使うダマシのための常套的「抑止論」である。

戦争を抑止するために戦力を備え、増強するとなれば、その戦力はあくまでも相対的なものであるから、敵味方双方とも疑心暗鬼に陥り、それぞれ国民の血税を注いで軍備を際限なく拡大していくことになる。双方合わせて莫大な殺傷能力と破壊力が蓄積され、一触即発の危機的状況に達する。戦争はこうして起こる。そしてついには、双方の民衆もろとも取り返しのつかない悲惨な運命を辿ることになるのである。過去の世界大戦のみならず、すべての戦争はこうしてはじまり、このような結末に終わる。人類は、いまだ戦争の問題を解決するすべを知らない。

日本国憲法は、こうした過去の愚かで悲惨きわまりない実体験の深い反省から導き出された結論であり、世界に誇る叡智なのだ。
もう一度、日本国憲法の前文と第9条をじっくり、それこそ素直に読み返してみたいと思う。

日本国憲法
前 文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第九条〔戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認〕日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

アベノミクスの「積極的平和主義」の内実たるや
この憲法の条文を素直に読みさえすれば、歴代政権の憲法違反の既成事実の積み上げによって、私たちは憲法の精神からはるかに後退したところで議論を余儀なくされていることに気づくはずだ。

すべての人間が生まれながらにして持っているとされる自然権としての自衛権と、軍隊の戦力の行使による「自衛」とは、日本国憲法の下では本来峻別されなければならないものであった。もちろん軍隊の戦力の行使以外の諸々の自衛は、自然権として当然のことながら認められる。しかし、この両者を決して混同してはならない。憲法第9条で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明確に規定されている以上、これを素直に読めば、たとえ「自衛」の名の下においても、軍隊の戦力の行使は決してありえないのである。これが、日本国憲法下で許される本来の自衛のあり方なのである。

それでは、どのような自衛の方法があるのか。それはのちに触れることになるが、マハトマ・ガンジーが指し示したように、非暴力・不服従の様々な形態の運動によって解決していく等々、そこに国民が知恵を絞り編み出していかなければならない数多くの課題がある。そもそも、これまで政府が憲法解釈で「日本が直接攻撃を受けた際に反撃できる個別的自衛権の行使は認められる」と言ってきたこと自体、ここで言う「反撃」が軍隊の戦力の行使によるものであれば、憲法第9条で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明確に規定されているのであるから、この個別的自衛権は憲法に違反していると見なければならない。ましてや「他国を武力で守る」集団的自衛権などは論外であり、到底認められるものではないことは自明であろう。

「北朝鮮を見よ、中国を見よ、南シナ海を見よ、中東を見よ、アフリカを見よ。日本の周辺事態および世界の安保環境は大きく変わったではないか――」。この現実の変化に対処するために、まやかしの「積極的平和主義」なるものを臆面もなく持ち出してくる。その「積極的平和主義」の内実たるや、憲法の解釈変更によって集団的自衛権の行使を可能にし、外国に軍隊を出し、戦争に参加し、国際平和のために貢献するというものなのである。国際平和のために、自衛のために、国民のいのちと平和な暮らしを守るために抑止力の強化を、と並べ立てる。結局、憲法が否認したはずの「陸海空軍その他の戦力」を保持し、さらに増強していくというのである。子供でも、無茶苦茶で出鱈目な議論だと気づくはずだ。

ご存知のように、もうすでに安倍政権は、特定秘密保護法を強行採決し、国家安全保障会議(日本版NSC)の設置、武器輸出三原則の実質的全面否定、そして解釈改憲による集団的自衛権の行使容認へと、国民を戦争の惨禍に晒すきわめて危険な体制の総仕上げを急いでいる。日中戦争、アジア・太平洋戦争の時も、これと本質的にはどこも変わらぬ手法を用いて突入していったのである。その結果どうなったかは、ここであらためて言うまでもないであろう。

北朝鮮や中国の脅威を煽り、それに対抗するために集団的自衛権の行使を可能にして、日米軍事同盟を強化し、抑止力を高めるという。そして莫大な国民の血税をそれこそ勝手に注ぎ込み、際限のない軍拡競争へとエスカレートしていく。ついには一触即発の危機的状態に陥っていく。いざとなればミサイルが飛び交う時代、きっかけをつくれば勝者も敗者もない。アベノミクスを標榜する抑止論者は、このことをしかと肝に銘じておくべきだ。これこそ現実を見ずに、口先だけで「国民のいのちと平和な暮らしを守る」と豪語する空理空論ではないか。

そんな無駄金を使うぐらいなら、国民がもっとも必要としている育児・教育・医療・介護・年金など社会保障にまじめに取り組み、文化芸術に意を注いだ方が、よっぽど社会を、そして世界を戦争のない平和な状態に導いていくことができるはずだ。

「自衛」の名の下に戦った沖縄戦の結末は
こう言うと決まって出てくるのは、「敵が攻撃してきたら、どうするのか」という、国民の不安につけ込む脅しである。これも、戦争推進者が使ってきた、昔も今も変わらぬ常套句である。こうした論法をまともに受けて、民衆は戦争に駆り出されてきた。

ここで、戦争の問題を考える上で思い起こさなければならない大切なことがある。イギリス植民地下のガンジーが、圧倒的に強大な権力の圧政、弾圧、暴力に暴力をもって対抗すれば、むしろ暴力の連鎖をいっそう拡大させてしまう、という当時のインドと世界の現実から学びとり到達した非暴力・不服従の思想である。これを待つまでもなく、太平洋戦争下での沖縄戦を考えるだけでも、戦争の本質は理解できるはずだ。

沖縄戦において一般住民を丸ごと巻き込み、あの想像を絶する犠牲を出したのも、結局、「軍隊が国家国民を守る」という大義名分の下で、住民を守るどころか、軍隊が軍隊の論理で敵と戦ったからである。軍隊の持つ戦力は、それを行使しようとしまいと、そこにあるだけで敵の戦力を最大限に誘引する。住民の居住地域は、軍隊がそこに戦力を構えているだけで、攻撃の対象となって集中砲火を浴びせられ、壮絶な戦場と化し、住民丸ごと犠牲となることを意味している。

軍隊の戦力を実際に行使しなくても、戦力を十分に備えておけば、戦争を抑止できるというのが、抑止論者の戦力保持のための口実である。しかし沖縄戦は、それとはまったく逆の結果になることを事実をもって示している。憲法第9条の「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」は、観念や空想から導き出されたものではなく、この過去の悲惨な具体的現実から導き出された結論なのである。これこそ、尊い犠牲によって人類がやっと獲得した何ものにも代え難い深くて重い教訓であり、人々が現実からくみ取った実に貴重な知恵なのだ。

加えて先にも指摘したように、相手が戦力を増強すれば、それを上回る戦力を持たなければ抑止力の意味を失う。そこで疑心暗鬼に陥り、際限のない軍拡競争がはじまる。その結果、敵味方双方とも莫大な破壊力を蓄積していくことになる。これこそ人類を破局へと追い込んでいく、実に馬鹿げた恐るべき競争ではないか。

日本国憲法の根幹を骨抜きにし、その精神を破壊する愚行
2012年12月の衆院選での「一票の格差」訴訟に対して、翌2013年3月に入り、「違憲」そして「無効」の一連の司法判断が次々に下された。この偽りの選挙制度のもとで、安倍政権は衆参両院で圧倒的多数の議席を占めるやいなや、国民の信任を得たとばかりに次々にきわめて反動的で危険きわまりない特定秘密保護法、国家安全保障会議(日本版NSC)の設置、武器輸出三原則の実質全面解禁へと踏み込み、さらには実にずる賢い卑怯な手口で解釈改憲による集団的自衛権の行使容認をもくろみ、わが国をきわめて危険な道へ引き込もうとして、着々と体制固めを進めている。

これが彼らの言う民主主義の実態なのである。国政選挙での自民党の得票数が全有権者数に占める割合を冷静に見るならば、もっと謙虚になれるはずだ。

この特定秘密保護法、国家安全保障会議(日本版NSC)の設置が現実のものになれば、国民の目と耳を遮断するブラックボックスができあがり、権力者は国民が知らぬ間に思いのままに既成事実を積み上げ、ついには危険な戦争の道へと引きずり込んでいく、かつての暗く恐ろしい時代を再現することになろう。

これを推進する為政者たちは、人々を欺き、平然として恥じない。こうしたやり方に国民は嫌気がさし、まっぴらごめんと思っていても、どうすることもできない無力感と閉塞感に苛まれている。

むやみやたらに戦争の危機を煽り、不都合な国や集団に対しては敵意をあらわにし、「仲間」と看做す国とは徒党を組んで経済制裁だ、はたまた武力制裁だなどと言って懲らしめる。それがどんな大義名分をもっともらしく並べ立てたとしても、その言葉の背後には市場拡大、石油や天然ガスなど化石燃料や鉱物資源をめぐる欲望と利権が渦巻いている。「自由と民主主義の価値観を共有する」と言われているどの国も、またそうでないとされている国も、その支配層はいずれもこうした欲望と利権の化身そのものなのだ。だから、国際紛争は解決するどころか深い泥沼にはまり、戦争は長期化する。こうした国際紛争は絶えることがない。世界は今や各地に紛争の火種を播きつけられ、一触即発の危険を抱え込んでいる。

こうした火種は収まるどころか、ますます勢いを増し、同時多発的様相すら呈し、慢性化していく。このことは、1970年代に端を発した経済の極端な金融化、さらには1990年代初頭におけるソ連邦の崩壊によって、旧社会主義諸国をも巻き込んで展開する市場原理至上主義の新自由主義的経済が生み出した貧富の極端な格差が、全世界的に加速的に拡大していることと決して無縁ではない。人々の不満が頂点に達し、それが負の際立った現象として表面に露呈したものと見るべきであろう。いよいよ資本主義が行き詰まり、末期症状があらわになっている。

為政者は自らの社会が抱える問題の深層に潜む根源的な原因には目を背け、人々の不満を外にそらそうとする。絶えず国外に仮想敵国をつくり、大国自らがつくり出した紛争に性懲りもなく関与しようとする。その内実は、相変わらず「仲間」なるものと徒党を組んで、経済制裁、あるいは武力をもって他者に打撃を与えること、つまり「暴力」によって対処しようとする愚行である。もはやそれ以外になすすべを知らない。混迷はますます深まり、紛争は激化する。それを口実に、科学技術の粋を尽くした最新鋭の軍備が増強される。際限のないこの暴力の連鎖。このどうしようもない現実こそが、資本主義が陥ったきわめて危険な末期的事態なのである。

第3次世界大戦すら予感させるきわめて深刻なこの状況を、今私たちの世界はむかえていると言わなければならない。今世界がこうした状況にあるからこそ、また、今日アベノミクスが目論むダマシの「積極的平和主義」が執拗にごり押しされている時であるからこそなおのこと、憲法第9条(戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認)は、特別に大きな意味を持っている。

あらためてアルジェリア人質事件を思い起こす
2013年1月16日、アルジェリア南東部、サハラ砂漠のイナメナスの天然ガス施設で突如発生した人質事件は、わずか数日のうちに政府軍の強引な武力制圧によって凄惨な結末に終わった。

その後、メディアを賑わす話題は、この種の事件の今後の対策へと収斂していく。現地住民の立場をも視野に入れた公平にして包括的な本質論はほとんど見られず、もっぱら内向きの議論に終始する。こうした中、2013年1月28日、安倍首相は衆参両院の本会議で内閣発足後初めての所信表明演説を行った。演説の冒頭、アルジェリア人質事件に触れ、「世界の最前線で活躍する、何の罪もない日本人が犠牲となったことは、痛恨の極みだ」と強調。「卑劣なテロ行為は、決して許されるものではなく、断固として非難する」とし、「国際社会と連携し、テロと闘い続ける」と声高に叫び胸を張る。

一方的に断罪するこうした雰囲気が蔓延すればするほど、国民もわが身に降りかかるリスクのみに目を奪われ、事の本質を忘れ、ついには軍備増強やむなしとする好戦的で偏狭なナショナリズムにますます陥っていく。こうした世情を背景に、為政者は在留邦人の保護、救出対策を口実に、この時とばかりに自衛隊法の改悪、集団的自衛権の必要性を説き、憲法改悪を企て、国防軍の創設へと加速化していく。

このような時であるからこそなおのこと、センセーショナルで偏狭な見方を一転しなければならない。当該現地の民衆が置かれている立場に立って、わが身の本当の姿を照らし出し、この事件を深く考えてみる必要があるのではないだろうか。

他国の荒涼とした砂漠のただ中に、唐突にもここはわが特別の領土だと言わんばかりに、あたかも治外法権でも主張するかのように、頑丈で物々しい鉄条網を張りめぐらしたミリタリーゾーン。その中で軍隊に守られながら他国の地下資源を勝手気ままに吸い上げ、現地住民の犠牲の上に「快適で豊かな生活」を維持しようとする先進諸国。一方現地では、外国資本につながるごく一部の利権集団に富は集中し、風土に根ざした本来の生産と暮らしのあり方はないがしろにされる。圧倒的多数の民衆は貧窮に喘ぎ、外国資本と自国の軍事的強権体制への反発を募らせ、社会に不満が渦巻いていく。「反政府武装勢力」、そして各地に持続的に頻発するいわば「一揆」なるものは、資源主権と民族自決の精神に目覚めたこうした民衆の広範で根強い心情に支えられたものなのではないのか。これを圧倒的に優位な軍事力によって、強引に制圧、殲滅する。

まさにこの構図は、今にはじまったことではない。アフガニスタンおよびイラク、イランをはじめとする中東問題が、再び北アフリカへと逆流し、さらには世界各地へと拡延していく。こうもしてまで資源とエネルギーを浪費し、「便利で快適な生活」を追い求めたいとする先進資本主義国民の利己的願望。それを「豊かさ」と思い込まされている、ある意味では屈折し歪められた虚構の生活意識。この欺瞞と不正義の上にかろうじて成立する市場原理至上主義「拡大成長路線」の危うさ。この路線の行き着く先の断末魔を、この人質事件にまざまざと見る思いがする。

果たして私たちの暮らし方、社会経済のあり方はこれでいいのか
はるか地の果てアルジェリアで起こったこの事件は、今までになく強烈にこれまでの私たちの暮らしのあり方、社会経済のあり方がいかに罪深いものであるかを告発している。と同時に、私たちの社会のあり方が、もはや限界に達していることをも示している。「拡大成長路線」の弊害とその行き詰まりが白日の下に晒され、誰の目にも明らかになった今、18世紀イギリス産業革命以来、二百数十年にわたって拘泥してきたものの見方、考え方を支配する認識の枠組み、つまり近代の既成のパラダイムを根底から転換させない限り、どうにもにもならないところにまで来ている。

大地から引き離され、根なし草同然となった現代賃金労働者(サラリーマン)という名の人間の社会的生存形態は、今ではすっかり常識となった。一方こうした中で、人間は自然からますます乖離し、自らがつくり出した社会の制御能力を喪失し、絶えず生活の不安に怯えている。高度に発達した科学技術によって固められた虚構の上に築かれた危うい巨大な社会システム。人間は、自然から遮断されたこのごく限られた、僅かばかりの狭隘できわめて人工的な空間に幽閉され、生来の野性を失い、精神の虚弱化と欲望の肥大化が進行していく。今あらためて大自然界の生成・進化の長い歴史のスパンの中に人類史を位置づけ、その中で近代を根本から捉え直し、未来社会を展望するよう迫られている。

しかし、わが国の現状はどうであろうか。大胆な「金融緩和」、放漫な「財政出動」(防災に名を借りた大型公共事業の復活)、巨大企業主導の旧態依然たる輸出・外需依存の「成長戦略」。とうに使い古されたこの「三本の矢」で、相も変わらず経済成長を目指すという「アベノミクス」なるもの。戦後六十余年におよぶ付けとも言うべき日本社会の構造的破綻の根本原因にはまともに向き合おうともせずに、ただひたすら当面のデフレ・円高脱却、そして景気の回復をと、選挙目当てのその場凌ぎの対症療法を今なお性懲りもなく延々と繰り返す。むしろこのこと自体に、この国の政治と社会の深刻な病弊を見るのである。

資本主義経済固有の不確実性と投機性、底知れぬ不安定性。とりわけ人間の飽くなき欲望の究極の化身とも言うべき、今日の市場原理至上主義「拡大成長路線」の虚構性と欺瞞性。そして何よりも目に余る不公正と非人道性、その残虐性は、いずれ克服されなければならない運命にある。

歴史の大きな流れの一大転換期にあって今まさに必要としているものは、その場凌ぎの処方箋などではない。社会のこの恐るべき構造的破綻の本当の原因がどこにあるのか、その根源的原因の究明と、それに基づく長期展望に立った社会経済構造の深部におよぶ変革に、誠実に挑戦することではないのか。

迫られるパラダイムの転換 ― 大地への回帰
大地への回帰。この素朴とも言うべき哲理こそが、行き場を失い混迷に陥った今日の社会を根本から建て直す指針となるのではないか。大地への回帰。これを空想に終わらせることなく、現実のものとするための大切な鍵は何か。「菜園家族」構想では、近代のはじまりとともに生み出され、長きにわたって社会の基層を構成し、今ではすっかり常識となった賃金労働者という人間の社会的生存形態そのものに着目し、それ自身を根本的に捉え直すことによって、19世紀以来の未来社会論が今日まで不覚にも見過ごしてきた問題を浮き彫りにし、そこから社会構築の新たなる道を探ろうとしている。

具体的には、拙著『グローバル市場原理に抗する 静かなるレボリューション ―自然循環型共生社会への道―』(御茶の水書房、2013年、A5判368頁)の本編第三章(「菜園家族」構想の基礎)で述べることになる週休五日制の「菜園家族」型ワークシェアリングによって、近代の歴史過程で大地から引き離された家族に、生きるに最低限必要な生産手段(農地や生産用具など)を再び取り戻すこと、つまり現代賃金労働者(サラリーマン)と生産手段との「再結合」を果たすことである。これは、いわば賃金労働者と農民という近代と前近代のこの二つの人格的融合による歴史的「回帰と止揚」(レボリューション)、すなわち21世紀の新たなる人間の社会的生存形態の創出を意味している。これによって、相対的に自給自足度が高く、市場原理に抗する免疫力に優れた「菜園家族」が形成される。それはいまだかつて見ることのなかった、精神性豊かな、慈しみ深い、しかも大地に根ざして生きるおおらかな、素朴で繊細にして強靱な人間の誕生でもある。

新しく生まれてくるこの「菜園家族」を社会の基礎単位に据えることによって、「家族」と「地域」による多重・重層的な協同関係成立の主体的条件が芽生えてくる。それはやがて、土壌学で言う団粒構造のふかふかとした滋味豊かな土を彷彿とさせる、きわめて自然生的で人間味溢れる、しかもグローバル市場原理に抗する免疫を備えた自律的な社会構造へと熟成していく。まさにこれは、人間存在を大自然界に包摂する新たな世界認識のもとに、自然の摂理とも言うべき、自然界の生成・進化を貫く「適応・調整」の普遍的原理(前掲拙著、本編第十章「今こそパラダイムの転換を」で詳述)に則して、「抗市場免疫の自律世界」を構築していくことなのである。

これこそが、今日の市場原理至上主義「拡大経済」社会に対峙する、21世紀における「菜園家族」基調の自然循環型共生社会への道であり、静かなるレボリューションの名にふさわしい、長期にわたる耐える力と英知を内に秘めた本物の変革と言うべきものではないのか。このことなしには、非戦・平和の問題も、今日日本が直面している経済、社会の深刻な事態も、根本的な解決はありえないであろう。

このレボリューションには、長い時間と根気が必要不可欠である。この自覚と覚悟がなければ未来はない。こうした変革への着手を遅らせ先延ばしにすればするほど、事態はますます悪化していく。それだけ解決の道のりは遠のき、困難を極めていく。そうこうしているうちに、恐るべき絶望の淵へと追い込まれ、この国の社会の混迷と世界の構造的矛盾は、いっそう深刻な事態に陥っていくことに気づかなければならない。

世界を揺るがす暴力の連鎖、それをどう断ち切るか
アルジェリア人質事件は、大切なもう一つのことを思い起こさせてくれる。先にも触れたように、圧倒的に強大な権力の圧政、弾圧、暴力に対しては、非暴力・不服従の忍耐強い抵抗運動をもって対峙する。これは、イギリス植民地支配下のマハトマ・ガンジーが苦難に満ちた実践から到達した、実に深くて重い思想である。この思想は、真の解放は暴力によっては決して勝ち取ることができないだけでなく、むしろ暴力によって暴力の連鎖をいっそう拡大させていくという、当時のインドと世界の現実から学びとり導き出された今日にも通ずる貴重な結論でもある。

嘆かわしいことに、今日の世界で起きている事態は、巨額の軍事費を費やし最新の科学技術の粋を凝らしてつくり上げた、政・官・財・軍・学の巨大な国家的暴力機構から繰り出す超大国の恐るべき軍事力と、自己と他者のいのちを犠牲にする方法によってしか、理不尽な抑圧・収奪に対する怒りを表し、解決する術のないところにまで追い詰められている「弱者の暴力」との連鎖なのである。かつてガンジーがインドの多くの民衆とともに「弱者」の側から示した精神の高みからすれば、大国の強大な軍事力すなわち暴力によって「弱者の暴力」を制圧、殲滅し、暴力の連鎖をとどめようとすることが、いかに愚かで恥ずべきことなのかをまず自覚すべきである。「弱者」が窮地に追い込まれ、そうせざるを得なくなる本当の原因が何であるかを突き止め、その原因を根本的になくすことに努力する。これ以外に暴力の連鎖を断ち切る道はない。

結局、それを突き詰めていけば、先進資本主義国私たち自身の他者を省みない利己的で放漫な生活のあり方、それを是とする社会経済のあり方そのものに行き着くことになるであろう。暴力の連鎖がますます大がかりに、しかも熾烈を極め、際限なく拡大していく今日の状況にあって、超大国をはじめ先進資本主義国の深い内省と、そこから生まれる寛容の精神、そして大国自身そのものの変革が何よりも今、求められている所以である。

戦争を生まない、心豊かなくに ―「菜園家族」的平和主義をめざすくに
ガンジーはイギリス資本主義の植民地支配と闘う中で、真の独立・自治(スワラージ)は単なる権力の移譲ではなく、インド再生の鍵は農村にあるとし、個人の自立と民族の独立の象徴として紡ぎ車を選び、村落の手仕事の伝統をインド経済の基礎に据え、スワデーシ(地域経済)を復活させようとした。今こそこの深い思想の核心を「弱者」のみならず、むしろ先進資本主義国私たち自身の社会に創造的に生かす時に来ている。

かつて人々は、現実社会の自らの生産と生活の足もとから未来へつながる小さな芽を慈しみ、一つ一つ育み、しかも自らのためには多くを望まず、ただひたすらその小さな可能性を社会の底から忍耐強く静かに積み上げてきた。人間は、このこと自体に生きがいと喜びを感じてきたのである。本来これこそが、生きるということではなかったのか。大地に生きる人間のこの素朴で楽天主義とも思える明るさの中に、明日への希望が見えてくる。これはまさに「静かなるレボリューション」の真髄にほかならない。

旧き世界に訣別し新たなる社会システムを構築するには、それをはるかに超える新たな認識の枠組みが必要になる。今こそ迷いやためらいを断ち切って、18世紀産業革命以来長きにわたって囚われてきた近代の呪縛から、解き放たれなければならない時に来ている。この重大なパラダイムの転換を成し遂げてはじめて、近代を画する新たなる世界、すなわち市場原理に抗する免疫的自律世界、つまり戦争を生まない「菜園家族」基調の自然循環型共生社会構築の道は、しだいに切り開かれていくであろう。

結局、「菜園家族」的非戦の平和主義は、究極においてこの「菜園家族」基調の自然循環型共生社会形成の努力の長き道のりを経て、はじめて達成されることになる。この長い過程を通じて、日本国憲法はしだいに現実社会に深く根を張り、やがて人類史上どの時代にも成し得なかった、戦争を生まない、心豊かな、ともに笑顔で暮らせる至福の世界はもたらされるのである。

平和の構築 ―― 千里の道も一歩から
アベノミクスの「積極的平和主義」の内実たるや、民主主義の根幹をなす立憲主義すらかなぐり捨て、世界の現実から遊離したきわめて偏狭な「私的情念」に根ざした思惑を国民に押しつけるものではないのか。無責任きわまりないというほうかない。この首謀者は、近頃とみに「国民のいのちと平和な暮らしを守るのは、内閣総理大臣の国民に対して負わなければならない責務である」と言う。民主主義政治の原理すら忘れたこの思い上がりこそ、ほどほどにしてもらいたい。

日本国憲法の公布から68年が経った今、私たちはもう一度憲法前文と第9条をしっかり再確認し、条文通り今日の社会に具現することをあらためて決意しなければならない。そして、このことを世界に向かって再宣言する。

と同時に、第9条が明確に否定している戦力を現に保持する今日の自衛隊を一日も早く改組し、自然災害や人災などあらゆる災害に対処する任務に特化した「防災隊」(仮称)に根本から編成し直す。この新しく生まれ変わった「防災隊」(仮称)を、現在の消防庁傘下の全国都道府県および市町村のすべての消防隊と統合・再編し、これを新設の「防災省」(仮称)の下におく。

この「防災省」(仮称)の下に新しく統合・再編された「防災隊」(仮称)は、その施設および人員を活用して、国民の生命、身体および財産を災害から保護するとともに、火災、水害、地震などあらゆる自然災害を防除し、これらの災害を軽減するほか、災害等による傷病者の搬送を適切に行う。

新設の「防災省」(仮称)の役割として、「安心・安全な地域づくり」を推進していくため、全国の災害対策本部や地方公共団体と連携して、必要な法令を整備するとともに、防災車両や資材・機材を充実させ配備する。大火災、大規模地震・津波や台風などの自然災害、土砂災害、水難・山岳救助、道路・鉄道・航空事故、有事などの緊急事態においては被害の全貌を迅速に把握するとともに、全国的な見地から緊急防災援助隊(レスキュー隊)の派遣などを行い、人命救助にあたる。防災隊員や職員の教育・訓練および消防・防災の科学技術の研究開発に力を入れる。日本国憲法の非戦・平和の精神を最大限に生かし、国民の圧倒的多数の支持のもとに、地震大国日本にふさわしい世界に誇る優れた「防災隊」(仮称)に育てあげていくことになろう。

一方、「菜園家族」構想は、戦後高度経済成長の過程で衰退した家族と、古来日本列島の津々浦々にモザイク状に形成されてきた森と海を結ぶ流域地域圏を一体的に甦らせ、農山漁村の過疎高齢化と都市平野部の過密を同時解消し、「菜園家族」基調の抗市場免疫の自律世界、すなわち自然循環型共生の地域社会を国土全体にバランスよく構築していく。こうして、地域地域の足もとからしだいに平和の土壌は熟成されていくのである。憲法第9条に則った戦力不保持の「防災隊」(仮称)の構想も、究極において、このような恒常的な地域づくりの動きの中で培われた広範な住民・市民の主体的力量に支えられてはじめて、現実のものとなっていくであろう。
非戦・平和構築の千里の道も、一歩からはじまる。

戦々兢々として疑心暗鬼の世界に生きるのは、もうたくさんである。こうした平和構築実践の道筋を具体的に示し、誠実に実現していく。これこそが日本国憲法の非戦・平和の精神を身をもって世界に示すことではないか。やがて、「国際社会において名誉ある地位を」占めることになるに違いない。

「自由と民主主義の価値観を共有する必然のパートナー」などと「仲間」だけを持ち上げ、徒党を組むような狭い了見からはすっかり解き放たれ、憲法第9条が指し示す「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄」し、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とする憲法のこの条文を厳格に具現し新設される「防災隊」(仮称)は、「安全・安心の地域づくり、くにづくり」の任務に徹し、非同盟中立の立場を明確に堅持する。

戦争することが今や世界の常識となったこの時代にあって、このように行動することは、はじめは孤立を深めることになるかもしれない。しかし、やがて多くの人々から、これこそが本物の世界の平和に通ずる先駆的な道であったと理解されるであろう。

こうしたひたむきな平和構築の具体的な実践行動によってはじめて、敵と看做してきた国々や人々からも、あるいは「仲間」と看做してきた国々や人々からも、そのいずれを問わずやがて世界の人々から尊敬されるに違いない。これこそがわが国の地政学的位置から見ても、再び戦争の惨禍に巻き込まれることのない道であり、また現に世界に誇る優れた非戦・平和の憲法を持つ国民としても、今日考えられる最も確かな、しかも最も現実的で可能性の高い真の「安全保障」の姿なのではないか。それを地道に実現していくことこそが、わが国の「安全保障」にとどまらず、危機迫る今日の世界情勢の中にあって、身をもって世界の人々に非戦・平和の道を示していくことになるであろう。

私たちは幸いにも世界に誇る日本国憲法を既に持っている。私たちは、われわれの先達たちによって辛うじて守られ、引き継がれてきた世界にも稀なる優れた憲法の精神を、勇気を出して誠実に行動に移しさえすればいいのである。私たちは、この貴重な遺産を最大限に生かさなければならない。

為政者も、人々も、今もっとも気を配り努力しなければならないことは、人々のいがみ合いやいさかいを助長することではない。「菜園家族」基調の自然循環型共生社会の構築という、この壮大な目標に向かって、長期展望のもと、今何ができるのかを多くの人々とともに考え、一つひとつ着実に実現していくこと。そして、「地域」の多重・重層的な構造の様々なレベルで、人々が「地域」の個性に合った着実な運動を展開していくことなのではないか。時間がどんなにかかろうとも、こうする以外に道はない。

人々の、人々による、人々のための政治とはまさしくこのことなのであり、これこそが民主主義の原点なのである。今日の現実は、この初歩的基本すらすっかり忘れ去り、ごく一部の特権的人間によって人々が分断され、いがみ合い、血を流し争っている実に悲しむべき状況なのである。

変わらなければならないのは、中東やアフリカやアジアの人々ではない。何よりもまず、先進資本主義国の私たち自身なのである。

2014年5月20日
里山研究庵Nomad
小貫雅男・伊藤恵子

※ この小文では、「菜園家族」的平和主義の意図するところを全面的に展開することができなかった。
ご関心のある方は、ぜひ文中でも触れた拙著『グローバル市場原理に抗する 静かなるレボリューション ―自然循環型共生社会への道―』(小貫雅男・伊藤恵子、御茶の水書房、2013年、A5判368頁)をご一読いただければ幸いである。